平業盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平 業盛(たいら の なりもり、嘉応元年(1169年)? - 寿永3年2月7日(1184年3月20日))は、平教盛の三男。兄に通盛、教経。官位は従五位下蔵人。
父の教盛は平清盛の弟で、平氏政権の全盛の中で若くして任官し栄達した。
寿永2年(1183年)7月、源義仲に追われ、父や兄ら平家一門ともに都落ちした。
寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷の戦いにおいて、兄たちとともに山手の城戸口の防備にあたったが源範頼の軍によって討たれた。『平家物語』によると、業盛は常陸国の住人・土屋五郎重行と組んで討たれている。
『源平盛衰記』にはより詳しく最後の様子が描かれ、源義経の逆落としの奇襲によって大混乱に陥った平家軍は海上の船団に向かって敗走しはじめた。業盛は馬上、渚に佇んでいたところを泥屋四郎吉安に組みかかられ、双方馬から落ちて上になり、下になりながら組み合っているうちに古井戸に落ちてしまった。業盛が上になって四郎の首を搔こうとするが、そこへ泥屋五郎が助けに現れて、業盛に兜に取りついた。業盛は振りほどこうとして、五郎は兜をつかんだまま投げ飛ばされた。だが、業盛は手負いになっており、五郎は起き上がると業盛の首を取り、兄を井戸から引き上げた。このとき業盛は17歳で、その力の強さに人々は感心したという。
『吾妻鏡』によると、この戦いで、兄の通盛、教経も討ち死にしている。このうち教経については『玉葉』などに生存説があり、『平家物語』『源平盛衰記』などの軍記物語ではこの後の屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで大いに活躍している。