常磐橋 (山形県)
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常磐橋(ときわばし)は、明治初期、県令三島通庸による山形県内道路改修工事の一環として整備された石橋で5連のアーチが特徴の眼鏡橋である。高橋由一の絵画「南村山郡吉原村新道の内酢川に架する常磐橋」として有名。
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[編集] 沿革
1878年(明治11年)に計画・架橋され、建設指揮は十等出仕原口祐之、傭吏奥野忠蔵。予算1万6千円。 絵画になったのは1981年(明治14年)から1982年(明治15年)頃。
1890年(明治23年)に出水で落橋してしまったため、現存していない。
[編集] 撮影者不明の写真は菊池新学
絵画と同じアングルの写真が残されているが、多くの資料で撮影者は不明とされている。しかし、山形県の記録では絵画を高橋由一、写真を菊池新学に依頼とある。
[編集] 名称の由来
後に架橋された福島県内にある信夫橋と同じく御影石で作られ、白く輝く5連のアーチが非常に美しいとされた。
「色かえぬ松によそへてあづま路の常盤の橋にかかる藤なみ」
という金葉集・太夫典侍の歌に因んで常盤を常磐にして命名されたといわれています。
東京日本橋にも同名の石橋(旧奥州街道の基点、名称の由来も同じ)が存在し、同等それ以上のものが山形に存在するのだと当時の県令三島通庸はアピールしたのです。
[編集] 道路整備のわけ
全国的にも石橋が整備されていない明治初期に、なぜこれほどの道路整備事業が必要だったのか? 山形の経済が強く結びついていたのが東京(江戸)ではなく大阪だったことが挙げられます。 最上川の水運が発達していて、天下の台所大阪と結ばれていればそれほど困らなかったのでしょう。道路網は貧弱でした。
しかし、明治維新政府としては東京集権を果たしたいわけですから、道なき道でしかなかった街道を物流と権威(警察・軍隊)の幹線として整備する必要があったのです。 そこで、馬車の通れる幅広い道・丈夫な石橋が作られていったのです。 意匠の美しさは、県令三島通庸と県官吏原口祐之が銀座煉瓦街建設に関わっていた事が大きい。ただ頑丈なだけでは権威が着いてこないことをよく理解していたからです。
そして、明治天皇の東北巡幸が行われるのです。 国家権力の象徴たる天皇が巡幸するにふさわしい街道が必要だったことも理由のひとつです。
当時、山形を訪れた英国人女性イザベラ・バードが語ったことを三島通庸関係文書が伝えています。 「・・山形地域に入ると道は広く整備され、馬車の往来も活発で東京近郊に戻ったようだった。 (中略)故郷の英国にあるような美しい石橋がありとてもうれしくなった。完成直前のその橋で建設技師からお茶を誘われ、建設図面や苦労話などをいろいろ聞かせてもらった・・・」 当時の英国人から見ても美しい橋だったことがうかがえます。
東京とのつながりが太くなり経済が活発になったことで山形県は発展しました。 他県では鬼県令といわれた通庸が、過酷な税と民権運動の弾圧があったにもかかわらず県令三島通庸の評価が山形県では高いのは、この辺が理由です。 「金貨が鳴れば悪口もおさまる」とういこと。
すでに東京との街道が整備されていた福島県、鉄道の時代になりつつあった栃木県では三島通庸の評価が低いのもうなずけます。経済的な恩恵がなかったからです。