崔浩
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崔浩(さいこう、? - 450年)は、中国北朝の北魏に仕えた漢人政治家。北魏の華北統一や統治機構の整備に貢献したが、太武帝の反発を受けて誅殺された。
[編集] 生涯
道武帝・明元帝に仕えた崔宏の息子で、太武帝の華北統一を戦略面などで助けた。太武帝の道教教団保護、仏教弾圧(三武一宗の法難の最初)も、崔浩の意を反映したものであった。しかし、浩が国史編纂にあたり、漢化が進む以前の時期の鮮卑族拓跋部(北魏帝室の出身部族)の風俗をありのまま記述し、その内容を石碑に刻して公開したことが帝室への侮辱とみなされ、太武帝や鮮卑系貴族の憤激を招いた。このため崔浩をはじめとした一族、さらに彼につながる漢族系の有力貴族は誅殺された(国史の獄)。背景には、崔浩が南朝的な貴族制への移行を急いだことに対する反発もあったともされる。
[編集] 参考文献
- 松丸道雄ら編 『世界歴史大系 中国史2』 山川出版社、1996年