崇禅寺 (大阪市)
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崇禅寺(そうぜんじ)は大阪市東淀川区にある曹洞宗の仏教寺院。山号は「凌雲山」。
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[編集] 概要・沿革
寺伝では天平年間、行基により創建されたとされる。この経緯から当初は法相宗寺院であった。
嘉吉元年(1446年)6月、嘉吉の乱により赤松満祐に殺害された足利義教の首は、本領に引き上げる途中の赤松氏軍勢によってこの寺に放置された。この因縁により、以後義教の菩提寺の一つとなり、管領細川持賢により伽藍と所領を寄付され曹洞宗に転宗、また細川氏菩提寺の一つとなった。明治2年には一時摂津県の県庁が置かれていたことから、境内は大阪府史跡、大阪市史跡に指定されている。
細川持賢による大伽藍は文明15年(1483年)、早くも戦火によって焼失、その後慶安年間になってようやく再建されたが、それも昭和20年(1945年)6月7日の大阪大空襲によりことごとく焼失した。現在の伽藍は平成元年(1989年)になってようやく再建がなった鉄筋コンクリート造りのものである。
[編集] 細川ガラシャ菩提寺
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦の前哨戦に置いて石田三成の人質になることを拒否した細川ガラシャは自らを家臣に殺害させて、細川家大坂屋敷に火をつけ、死去した。その後、宣教師オルガンチノが焼失した細川屋敷より遺骨らしき物を掘り起こし、細川家菩提寺である崇禅寺に納めたとされる。この経緯から崇禅寺は細川ガラシャの菩提寺となり、先述の足利義教の首塚と並んでガラシャの墓が残っている。
[編集] 遠城兄弟のだまし討ち
大和郡山藩士・遠城宗左衛門は剣術の試合で生田伝八郎に勝ったが、これを逆恨みした伝八郎により闇討ちにあい殺害された。宗左衛門の兄・遠城治左衛門と安藤喜八郎は弟の敵討ちのため伝八郎をこの崇禅寺に呼び出したが、逆に伝八郎は多数の加勢を呼んでおり、治左衛門と喜八郎は返り討ちに会い殺害された。当時の崇禅寺住職・門啓天岑と元江戸町方与力・勝見宗春はこの兄弟の哀れを思い、遠城兄弟の墓を崇禅寺に築き、菩提を弔った。
[編集] 文化財
すべて大阪市指定有形文化財。
[編集] 所在地
〒533-0033 大阪市東淀川区東中島5-27-44