岩崎彦弥太
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岩崎 彦弥太(いわさき ひこやた、1895年9月15日 - 1967年9月8日)は、三菱財閥のオーナー・岩崎家の一員で、三菱合資会社元社長・岩崎久弥の長男。
[編集] 生涯
東京府(現・東京都)出身。 1913年に東京高等師範学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業後、1920年に東京帝国大学文学部社会学科を卒業。一旦大学院に進むが、1922年英国に留学し、1925年の帰国後三菱合資会社に入社。1934年副社長に就任。三菱財閥傘下の企業の取締役にも就任した。
太平洋戦争後の1947年、財閥解体政策により、父久弥、弟隆弥、恒弥と共に財閥家族に指定され、全役職を辞任。1953年三菱地所の取締役に就任。
1945年に、縁戚の小弥太(祖父・弥太郎の甥)が亡くなった事で三菱本社社長の椅子が約束されていたが、財閥解体政策によってその地位を理事長の船田一雄(三菱鉱業常務や三菱商事会長を歴任)に譲らざるを得ず、「悲劇の三菱当主」といわれた。
[編集] 家族
操子夫人は佐竹東家(旧出羽国秋田藩主佐竹氏の分家)第17代当主・佐竹義準男爵の三女。操子の兄・佐竹義利(義準の長男、彦弥太の義兄)は三菱系企業である東洋製作所の社長を務めた実業家。
なお彦弥太・操子夫妻には1男3女がいる。長男・寛弥は三菱銀行取締役を経て、小岩井農牧の親会社・東山農事の社長を務める。小岩井農牧、東山農事の両社は岩崎家が三菱財閥とは別に経営してきた企業だが、その生い立ちから三菱グループとは密接な関係にある。また、彦弥太の次女は三菱商事の社員に、三女は小岩井農牧常務を経て博報堂取締役となった実業家に嫁いだ。