岩国城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岩国城 (山口県) |
|
---|---|
復元天守 |
|
通称 | 横山城 |
城郭構造 | 連郭式山城 |
天守構造 | 望楼型4重6階 (鉄筋コンクリート造模擬) |
築城主 | 吉川広家 |
築城年 | 慶長6年(1601年) |
主な改修者 | |
主な城主 | 吉川氏 |
廃城年 | 元和元年(1615年) |
遺構 | 隠居所長屋、石垣、水堀、空堀 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | 天守、発掘復元天守台 |
位置 | 北緯34度10分30.92秒 東経132度10分27.23秒 |
岩国城(いわくにじょう)は、日本の城。所在地は山口県岩国市横山。
目次 |
[編集] 概要
岩国城は山上の城である「横山城」と、麓の居館である「土居」から成る。江戸時代初期は岩国藩の居城となり、廃城後は土居が陣屋として存続した。城下と城を隔てる錦川には錦帯橋が架けられ、特徴的な景観を作り出している。城下町はこの錦帯橋の道筋を基準に整然と整備された。
[編集] 歴史・沿革
[編集] 江戸時代
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封となった。同時に一族であり毛利家存続に注力(結果的に毛利氏は領土を大幅に削減された)した吉川広家も同時に米子城から当地に3万石で封じられた。
慶長5年10月には家臣団が、慶長6年(1601年)には広家がこの地に赴任した。広家赴任と同時に岩国城の築城が開始された。麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が横山山上に築かれた。築城には8年の歳月が費やされ、まず翌慶長7年(1602年)に土居が完成した。土居完成とほぼ同時期に横山城の築城が開始され、慶長13年(1608年)に竣工した。本丸には4重6階の唐造りの天守が建造された。
しかし、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に幕府の一国一城令により横山城が破却され廃城となった。これは、周防国にはこの岩国城のみが存在していたが、長府藩の毛利秀元が居城の櫛崎城を破却したことに合わせざるを得なかったことによる。その後、麓の土居は岩国藩の陣屋として明治維新まで存続した。
岩国藩は本藩である長州藩より長期にわたって独立を認められず、支藩・陪臣として扱われた。これは、関ヶ原の合戦時に吉川家のとった行動が、毛利家中で評価されなかったことと深く関わりがある。当藩は明治維新の年、慶応4年(1868年)に漸く独立の藩として認められ諸侯に列したが、明治4年(1871年)には廃藩置県によって廃藩とされたため、正式に独立した藩の藩庁として機能した時期はわずかだった。
[編集] 近現代
明治18年(1885年)居館「土居」跡が吉香(きっこう)公園となり、堀端に絵馬堂である錦雲閣(きんうんかく)が旧藩時代の櫓を模して建造され、現存している。また、藩政時代の建造物として寛政年間(1789年~1800年)に建てられた昌明館(7代藩主経倫の隠居所)の長屋が現存している。昭和37年(1962年)本丸南側に復元天守が完成した。これは麓からの見栄えを重視して建設されたもので、現在の天守は本来とは異なる場所に建てられている。約30m離れた本丸北側の本来の位置にも天守台が存在するが、これは平成7年(1995年)に発掘復元されたものである。山上には、他に石垣や堀の遺構が遺る。
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(74番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
平成19年(2007年)現在、山上と吉香公園のある山麓はロープウェイ(岩国城ロープウェイ)で結ばれている。
[編集] 参考文献
- 『日本史広辞典』山川出版社、1997年