山田浅右衛門
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山田浅右衛門(やまだあさえもん)は、江戸時代に公儀御様御用(こうぎおためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名である。後には死刑執行人を兼ねるようになり、首切り浅右衛門とも呼ばれた。山田家では、実子でも腕のない者には浅右衛門の名を継がさず養子を立てた。なお、公儀御様御用は幕府の公式の役職ではなく、幕府から知行を得てもいなかったため、身分はあくまでも浪人であった。
当初は試し斬りを行うのみで死刑執行人ではなかった。しかし、幕府の正式な首切り役人が直接の死刑執行役となるのを嫌うことが多くなり、また浅右衛門のほうも試し斬りのために死体を必要とするため、死刑執行を代行するようになった。
- 戦国時代に日本を訪れた宣教師も、自国では動物を使って試し斬りをするが、日本人は人間以外の動物を使っての試し斬りを信用せず、必ず人間の死体で行っているという事を記録している。鸚鵡籠中記にも、著者の朝日重章が通っている剣術道場で、たまたま死刑囚の死体を入手する事ができため、朝日重章自身も試し斬りをやってみたという記録がある。
彼らは死刑執行の代金は手に取らず、正式な首切り役人に死体の代金を渡しており、死刑執行そのもので利益を得ることは無かった。報酬は刀剣の鑑定に対するものであり、死刑執行は鑑定に必要な試し切りという位置づけであった。また、その刑死体を手に入れることができれば、試し斬り1回で死刑執行の代金の10倍以上にのぼる礼金を手にすることができた。また、彼らには刀の鑑定をするという副業もあった。さらに、人間の肝臓は人胆丸という高価な漢方薬であり、それを売ることを許されていたのも山田浅右衛門だけであった(1870年4月15日、販売禁止)。こうした事情で、山田家は浪人の身でありながら3~4万石の大名に匹敵するほど裕福であった。
公儀御様御用は年に1~2回あり、1刀につき金1枚(10両)の手当が支給され、年に50両以内であったろうと推定されている。大きな収入源は刀剣の鑑定であった。その手数料は古くは1刀につき金100疋内外であったが、後に手数料から礼金へと性質が変化し、諸侯・旗本・庶民の富豪愛刀家から大きな収入を得たが、最大の収入源は前述の「人胆丸」であった。
山田浅右衛門は、その金を死んでいった者達の供養に惜しみなく使った。彼らが建立した寺院は、現在でも東京にいくつか残存している。また彼らは試し斬りの実績を活かし、刀剣の業物位列を作り出した。最も有名なものは山田浅右衛門吉睦の「懐宝剣尺」である。
幕府瓦解後も斬首役として新政府に仕えたが明治になって西洋の道徳基準を意識する政府により、1881年に斬首刑が廃止され、山田浅右衛門は職を失い消滅した。
渡辺淳一は小説「項の貌」において首切り役の山田浅右衛門が刃こぼれもせずに首切りが出来た理由を医学的に推測している。
[編集] 歴代山田浅右衛門
- 山田浅右衛門貞武(1657-1716年)
- 山田浅右衛門吉時(--?--1744年)
- 山田浅右衛門吉継(1705-1770年)
- 山田浅右衛門吉寛(1736-1786年)
- 山田浅右衛門吉睦(1767-1823年)
- 山田浅右衛門吉昌(1787-1852年)
- 山田朝右衛門吉利(1813-1884年)
- 山田朝右衛門吉亮(1854-1911年)
吉亮の兄である山田朝右衛門吉豊(浅雄:1839-1882年)を8代、吉亮を閏8代とすることもある。
[編集] 登場する作品
- 暴れん坊将軍
- 必殺仕事人・激突! (仕事人グループの一員として登場。山田「朝」右衛門)
- 首斬り朝 (劇画)原作・小池一夫、劇画・小島剛夕。山田「朝」右衛門が主人公。
- Samurai Executioner 上記の英訳。アメリカで大人気を博す。 (リンク先の英語版ウィキペディアに詳細な解説あり)
- 無限の住人 (漫画)4代目山田浅右衛門吉寛が登場
- SUN -山田浅右衛門 (少女漫画)津寺里可子著。4代目山田浅右衛門吉寛を主人公とする。全4巻。
- 警視庁草紙 (ちくま文庫、河出文庫)山田風太郎著。幕末を経て斬首刑制度がなくなるまで警視庁に勤務する山田浅左衛門が登場。