尾藤知宣
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尾藤 知宣(びとう とものぶ、? - 天正18年(1590年)、死亡時期については諸説あり)は戦国時代の武将。豊臣秀吉古参の家臣で、通称甚右衛門、官位として左衛門尉と称す。名を知定・知重・光房ともいう。森可成に仕えた尾藤源内重吉の次男。
真田昌幸、石田三成に娘を嫁がせた宇多頼忠は実弟。早くから豊臣秀吉に仕えた。弟の頼忠は武田信玄、徳川家康が遠江へ勢力を拡大して争う中で所領を失い、兄を頼って秀吉の弟秀長に仕えた。
[編集] その経歴
知宣は天正元年(1573年)、近江長浜で250貫を与えられて黄母衣衆・大母衣衆に名を連ねた。当時の秀吉家中において神子田正治・宮田光次・戸田勝隆らと並び称されたが、知宣はその中でも最も軍事に通じていたという。天正5年(1577年)、播磨国内で5000石に加増。天正13年(1585年)、秀吉の弟羽柴秀長に従って四国征伐に参加し、阿波木津城を陥落させるなど武功を挙げ、翌年、讃岐丸亀5万石に封ぜられた。
天正15年(1587年)、戸次川の戦いで失態を犯し、改易された仙石秀久の後継として軍監に就任した知宣は、羽柴秀長の下で九州征伐に従軍し、黒田孝高や小早川隆景といった武将たちを差配する立場となった。しかし、高城攻略戦中に、島津の援軍が宮部継潤の守る根白坂砦に攻め掛かったことを聞いて出陣しようとする秀長に慎重論を唱え、援軍を出させなかったものの、秀長個人が援軍として出した藤堂高虎の隊が奮戦し、これがきっかけとなり豊臣軍の大勝利という結果となってしまった(日向根白坂の戦い)。また、この戦いの後に敗退する島津軍に対して、ここでも知宣は深追いは危険とし諸将を抑え、追撃を行わず、島津氏討伐の決定的な好機を逃してしまうこととなる。このことが、秀吉の怒りを買い所領を没収された。
その後、伊勢の朝熊山に潜伏し、天正18年(1590年)7月、小田原を平定した秀吉の前に剃髪して現れ、寛恕を請うたが容れられず、下野に護送され、路上において処刑された。最期については諸説があるが、下野那須で惨殺されたという。
[編集] その後の一族
知宣の次男知則はこの時少年だったが、のち細川忠利に仕え、子孫は熊本藩士となった。長男は父が殺された後、一時、伯父頼忠にならって宇多頼次と称しており(頼忠も含め、連座を避けるための措置と思われる)、石田三成に匿われて三成の父正継の養子となった。真田昌幸の娘を娶って、石田頼次と名乗っている。頼次は三成に殉じて近江佐和山城で叔父頼忠、従兄弟の頼重らと共に自刃したと言われるが、この時は大坂城下の石田屋敷の留守を任されていたため死に遅れ、後に寺沢堅高の家臣になったとする異説がある。