小笠原長春 (幡豆小笠原氏)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小笠原 長春(おがさわら ながはる、生年不詳 - 応永16年(1409年)3月)は室町時代の武将。小笠原氏庶流。小笠原長房の子。守護大名一色氏に仕え、若狭、三河などの守護代を務めた。蔵人大夫、三河守、出羽守と称す。入道名は明鎮。子は小笠原長頼(三郎)。
目次 |
[編集] 略歴
応永4年(1397年)の父小笠原長房の没後、若狭、三河、尾張知多郡の守護代職を継承する。同時に剃髪して明鎮と号す。しかし、わずか2年後の応永6年(1399年)8月、一色詮範により若狭国守護代職を解任される[1]。主君との間に確執が生じたためと考えられるが詳細は不明。ただし、若狭以外の守護代職は引き続き保持している。
詮範が没し、一色満範の代になると、守護一色氏と守護代小笠原氏の対立は頂点に達する。応永13年(1406年)10月1日、明鎮とその子長頼は京都にある満範の屋敷で捕らえられ、守護代職剥奪のうえ、丹後国石河城に監禁された。小浜八幡宮の裏山で鹿狩りを行った祟り[2]と伝えられる。小笠原氏が守護権力を脅かすまで力をつけたことが一色氏に忌避された、一色氏内部の新旧家臣団の勢力争いに敗れた[3]などが失脚の原因として挙げられている。
明鎮父子幽閉後、小笠原氏の根拠地三河国幡豆郡では、小笠原長正(安芸守、明鎮の叔父または弟)が蜂起、一色軍と交戦するが、応永15年(1408年)12月26日、一族郎党数十人とともに敗死した。
一色満範は幡豆小笠原氏壊滅直後の応永16年(1409年)1月6日に没し、明鎮父子はその2ヶ月後の3月に石河城にて切腹を命じられ果てた。『小笠原氏覚書』や幡豆町にある安泰寺の過去帳によれば没日は3月9日。
[編集] 脚注
- ^ 守護代職の解任は「吉良町史」の見解。一方、河村昭一は、石河城幽閉時まで守護代職は保持したとの見解。
- ^ 『若狭国守護次第』にみられる。
- ^ 一色満範は明徳の乱の戦功により父とは別に丹後国守護職に補任された。自身が当初から守護職に就いた丹後国人(石川氏ら)との関係が緊密であり、満範が新家臣団勢力に肩入れした結果、小笠原氏の失脚に繋がったとする見方。
[編集] 参考文献
- 「福井県史 通史編2 中世」
- 「吉良町史 中世後期・近世」
- 「財団法人愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第69集」
- 河村昭一「南北朝室町初期の若狭守護代小笠原氏について」