小笠原貞哲
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小笠原 貞哲(おがさわら さだとし、享和2年10月1日(1802年10月27日) - 安政4年9月16日(1857年11月2日))は、豊前千束藩(小倉新田藩)の第5代藩主。父は第4代藩主・小笠原貞温(貞哲は長男)。母は本田氏(美賀子)。正室は酒井忠寧の娘。子に貞謙、貞嘉、貞寧、娘(柳沢光昭室)。官位は従五位下・備後守。近江守。備中守。
享和2年(1802年)10月1日、江戸で生まれる。文政5年(1822年)、父の死去により後を継ぐ。大番頭となった。天保9年(1838年)、藩内の5か村で農民による逃散騒動が起こった。天保14年(1843年)12月9日、次男の小笠原貞謙に家督を譲って隠居し、安政4年(1857年)9月16日、江戸で死去した。享年56。法号:大乗院殿義山玄空。
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