小笠原忠徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小笠原 忠徴(おがさわら ただあきら、文化5年10月12日(1808年11月29日) - 安政3年5月12日(1856年6月14日))は、江戸時代後期の大名。豊前国小倉藩の第7代藩主。第6代藩主・小笠原忠固の次男、母は島津重豪の娘・静子(静姫)。正室は前田斉広の娘。子に娘(小笠原忠幹室)。
天保14年(1843年)、父・忠固の死によって家督を継ぎ、藩主となった。官位は従四位下、左京大夫、侍従、伊予守。
父の時代から小倉藩は財政難に悩まされたうえ、複雑な政争もあって家老や藩士など300人以上が筑前国黒崎に出奔するなどの事件もあって、忠徴が継いだ頃の小倉藩は混迷を極めていた。忠徴はこのような藩を立て直すため、積極的な藩政改革に取りかかる。
まず、忠徴は不正を許さず、これらを厳しく摘発する。さらに安政元年(1854年)には種痘を実施した。その他にも農民に対して善政を施すなどして藩政を立て直した。安政3年(1856年)、49歳で死去。死後、家督は小笠原忠嘉が継いだ。
|
|
|