小笠原信房
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 享保18年2月11日(1733年3月26日) | |||
死没 | 寛政6年1月20日(1794年2月19日) | |||
別名 | 源弥(幼名) | |||
戒名 | 清巌院殿潔山玄佼大居士 | |||
墓所 | 福井県勝山市の開善寺 | |||
藩 | 越前勝山藩主 | |||
官位 | 従五位下、飛騨守 | |||
氏族 | 小笠原氏 | |||
父母 | 父:小笠原信辰、養父:小笠原信胤 | |||
妻 | 正室:堀川広益の娘(伊達村候の養女) | |||
子 | 小笠原長教(次男)、小笠原信賢(三男)、 娘(福島正聖室のち知久頼福室)、 花房信順(四男)、娘(小笠原直信室)、 娘(有馬広春室)、娘(小笠原信興養女) |
小笠原 信房(おがさわら のぶふさ)は、越前勝山藩の第5代藩主。信嶺系小笠原家7代。
享保18年(1733年)2月11日、越前勝山藩2代藩主・小笠原信辰の長男として生まれる。誕生時、父の信辰はすでに享保6年(1721年)4月に隠居していたため、第3代藩主になることはできず、第4代藩主・小笠原信胤の養子となり、延享2年(1745年)に信胤が死去したため、家督を継いで第5代藩主となる。
しかし13歳の幼少であったうえに病弱であったことから、しばらくは藤堂良端の補佐を受けた。自ら親政を開始すると藩財政再建のために年貢増徴政策を採ったため、明和8年(1771年)に百姓一揆が起こって年貢減免要求を受け入れざるを得なくなった。安永6年(1777年)に藩札を発行している。
安永4年(1775年)から病がちとなり、安永9年(1780年)11月16日に家督を子の小笠原長教に譲って隠居した。その後は白山温泉で療養し、寛政6年(1794年)1月20日に死去。享年62。
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