小山田信有 (出羽守)
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小山田 信有(おやまだ のぶあり、永正16年(1519年) - 天文21年1月23日(1552年2月17日))は甲斐の郡内地方(甲斐東部)の有力国人小山田氏当主。出羽守を称した。越中守を称した小山田信有の子。弥三郎を称した小山田信有・小山田信茂の父。桓武平氏。秩父党の末裔。
祖父(又は伯父)の小山田信隆や父の越中守信有は武田信虎と幾度となく争ったが、後に姻戚関係を結び、臣従。以後、小山田氏は武田家の一門衆として厚遇された。
出羽守信有は智勇に優れ、武田信玄(当時は晴信)の家督相続をいち早く支持したとされ、その政務に関与している。また、信濃攻めで佐久郡志賀城主笠原清繁の寡婦を与えられ(『勝山記』による)、上田原の戦いでは武田軍が潰走する中で唯一陣を守るなどいくつもの軍功を挙げた。天文19年(1550年)の村上義清との戦い(砥石崩れ)で重傷を負い、それが元で天文21年(1552年)に死亡。葬儀には多くの人が参列したという。