小スキピオ
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プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス・ヌマンティヌス(ラテン語:Publius Cornelius Scipio Aemilianus Africanus Numantinus, 紀元前185年? - 紀元前129年)は共和政ローマ期の軍人、政治家。カルタゴの破壊者として知られている。第二次ポエニ戦争でローマを勝利に導いた大スキピオ(大アフリカヌス、スキピオ・アフリカヌス)と区別して『小スキピオ』、『小アフリカヌス』、『スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス』と呼ばれることが多い。
[編集] 概要
ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスの息子として誕生。叔母であるアエミリアは大スキピオの妻であったので大スキピオは叔父にあたる。その後大スキピオの長男の養子となりスキピオ家に入り、以降、名を「プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス」とする。
第三次ポエニ戦争時、カルタゴの三重防壁を破るために派遣され、紀元前146年カルタゴを陥落させる。繁栄したカルタゴが滅んで行く様を当事者として目の当たりにし、炎上するカルタゴを見つめ「ローマもいつか滅びる日が来るのであろうか」とポリビウスに語って嘆いたという。これ以降『アフリカヌス』の称号を持つ。
ヌマンティア戦争の司令官にも選ばれ、紀元前133年にはヌマンティアを征服し、イベリア半島にローマの支配権を確立した。以降『ヌマンティヌス』の名を持つ。
大スキピオの外孫でグラックス兄弟の姉であるコルネリアが妻であり、兄弟とは生来の血縁に加えて義兄弟という立場でもあった。そのような近い関係にあっただけに父を早くに失った兄弟の若い頃は親密に面倒を見た小スキピオだが、保守勢力の代表たる元老院のプリンケプスとなっていた晩年、兄弟の改革には反対する立場をとりつづけた。プルタルコスの記述に寄れば、ティベリウス・グラックスの演説をヌマンディア遠征中で聞いたスキピオは「このような事を言う者は死ねばいい」と言ったらしい。そのためティベリウスが撲殺された時、民衆の怒りを買い、一族のスキピオ・ナシカのように国外退去されられそうになったという。 紀元前147年及び紀元前134年の2度に渡り、執政官を務めた。
紀元前129年に死去。急死したスキピオの死についてはグラックス兄弟ら改革急進派による暗殺、とする説もある。
晩年の彼は肥満していたという。
ヨーロッパ人の名前「エミリオ」「エミリー」「エミール」「マクシミリアン」などは彼の生家アエミリウス氏族に由来する。
小スキピオ死後の共和政ローマ期に活躍した哲学者マルクス・トゥッリウス・キケロは、著書「国家論」(De re publica)の中で自らの宇宙観を記す際に、「スキピオの夢」と称される小スキピオを題材とした一節を残した。また、「スキピオの夢」を題材とした作品として、ルネサンス期の画家ラファエロ・サンティが絵画(「騎士の夢」)を製作、18世紀の音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがオペラ「シピオーネ(スキピオ)の夢」(en)を作曲(発表は1772年)した。