寺西正司
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寺西 正司(てらにし まさし、1947年2月6日 - )は、元UFJ銀行頭取。元全国銀行協会会長。広島県因島市出身。経済学者の寺西重郎(一橋大学名誉教授)は実兄。
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[編集] 概要
1965年広島県立因島高等学校卒業。1969年大阪大学経済学部卒業後、三和銀行に入行。ノースウェスタン大学でMBAを取得。1995年三和銀行取締役、1999年に専務に就任。2002年には持ち株会社UFJホールディングスの傘下で三和銀行と東海銀行が合併して誕生したUFJ銀行の初代頭取に就任。
[編集] UFJ銀行頭取として
当初は、三和銀行の2001年当時の頭取であった室町鐘緒が就任する予定だったが2001年3月期決算において赤字の見通しとなり就任が困難な情勢となったため、副頭取に内定していた寺西が昇格する形で就任することとなった。
しかし、発足したUFJ銀行は収益性は三和銀行時代から引き継がれた体育会系的営業スタイルの伝統や他行に比べ積極的な貸し出しの姿勢によって当時の4大メガバンクのなかで三井住友銀行に次ぐ収益力の高さを誇る反面、財務体質は劣悪でダイエー、ニチメン・日商岩井(現・双日)、日本信販(現・三菱UFJニコス)、アプラス、大京、藤和不動産、ミサワホーム、国際興業、国際自動車などに対しての貸し出しの焦げ付きや過剰な貸付、それらに対する損失引き当て不足が当初から懸念されており、結果的に業務で利益が上がっていても損失引き当ての強化及び不良債権の処理に伴い利益をはるかに上回る巨額の赤字の計上する状態だった。UFJ銀行は発足してからの3年間で黒字を計上することはなかった。
[編集] 不良債権処理の時期
特にダイエー向けの債権はUFJ銀行の発足前は東海銀行、三和銀行、富士銀行、住友銀行がそれぞれ5000億円を超える融資額を横並びで貸し付けていたがUFJ銀行の発足によって融資額が1兆円を超えて突出する形となりダイエーのメインバンクとしての責任を背負い込むことになり、その処理が経営の足を大きく引っ張ることになった。
2003年3月期には2002年9月に金融担当大臣(経済財政担当大臣兼任)に竹中平蔵が就任した。10月には「金融再生プログラム」が発表された。
当時、全銀協の会長だった寺西は「銀行はルールの中で経営されている。サッカーをしていたのに、突然、アメリカンフットボールだといわれても困る」と述べた。この発言はのちに辿るUFJグループの行末を考えると、当時のUFJグループの経営陣にとっては非常に厳しい条件を突きつけられていたことを物語っている。
2003年の3月、メリルリンチから1200億円の増資を行い資本を強化する。その後も当時5万円額面換算で10万円を割っていたUFJ銀行の持ち株会社UFJホールディングスの株式をモナコの投信会社に引き受けて保有比率5%の筆頭株主になってもらうなどの株価対策や資産の売却、劣後債などによる資本増強を行った。結果、日本の株式市場は「りそなショック」を経て株価は上昇に転じUFJ株は結果的に株価上昇の先導役となって株安で抱えていた銀行の含み損はかなり解消した。
ただし、金融庁から業務改善命令を受けるなど経営の視野や選択肢が限られる状況であり現金資産が増えていたわけではなかった。業務改善命令に対して約束した利益は1300億円程度であった。
2004年1月、日本経済新聞が金融庁の特別検査が入っている実態が報道され計画されていた永久劣後債による4000億円にのぼる増資は取り止めになった。
2004年4月、今度は中日新聞がスクープの形でUFJグループの不良債権に対する引き当てが不十分とされる報道がなされ金融庁に約束した利益が未達となり寺西らの経営トップの辞任の見通しを報じた(UFJショック)。
結局、2004年の3月期決算において損失引き当ての大幅な積み増しによって約4000億円の赤字となった。2期連続の赤字となり経営責任を取って2004年5月、後任に取締役ではなかった常務執行役員・沖原隆宗を指名して辞任した。
寺西の頭取としての実績は「UFJ24」があり24時間ATMの設置、土日に営業する店舗の展開が盛り込まれていたがのちにUFJグループと三菱東京フィナンシャル・グループが経営統合して発足した三菱UFJフィナンシャル・グループやその傘下の中核銀行・三菱東京UFJ銀行に引き継がれることになった。
[編集] 参考文献
- 須田慎一郎『UFJ消滅』~メガバンク経営者の敗北~(産経新聞社、2004年)
- UFJ三菱東京統合 (日本経済新聞社、2004年)
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