富田 (高槻市)
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富田(とんだ)は、現在の大阪府高槻市富田町付近の地域。かつては摂津国嶋上郡に属した。教行寺を中心とした寺内町であった。
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[編集] 歴史
平安時代、藤原師輔から息子尋禅に譲られた荘園の中に「富田荘」が見られる。後に天台座主となった尋禅によって比叡山延暦寺領に編入された。後の戦乱で支配権が転々としたらしく、室町時代前期には室町幕府の直轄領となっており、臨済宗普門寺が創建された。足利義満は妻の実家日野家の日野有光を同荘の代官に任じており、また、同家との関係の深い浄土真宗本願寺7世存如が光照寺(現在の本照寺)を創建した。
寛正の法難で延暦寺によって大谷本願寺を破却された本願寺8世蓮如を宥めるために管領細川勝元がこの地に寺地を与えて京都から立ち退かせようとしたが、蓮如が間もなく吉崎御坊に向かったために土地は一時店晒しとなった。後に蓮如が加賀一向一揆を避けて戻ってきた後に富田荘の光照寺に一時滞在し、文明13年(1481年)に教行寺を建立して8男蓮芸を住持とした。以後富田は本願寺門徒が集まり、寺内町が形成されるようになる。後に天文の錯乱によって管領細川晴元らの攻撃を受けて焼き討ちにあうが、後に再興を許された。皮肉にも後に三好長慶によって管領の地位を追われた晴元が出家を条件に一命を助けられて死ぬまで幽閉されたのがこの時非真宗寺院であったために焼き討ちを免れた普門寺であった。なお、この間に前将軍足利義政の遺言により慈照寺(銀閣寺)に富田荘が寄贈されるが、幕府の意向で1年後に代替地を与えられて幕府に返却している。
永禄の変で将軍足利義輝が殺害されると、三好三人衆に擁立された足利義栄が普門寺に入って「普門寺城」として次期将軍にしての根拠地とする。永禄11年(1568年)、念願の征夷大将軍に任じられるものの、政情不安定により京都に入れずそのままここに幕府を設置する。だが、織田信長の上洛によって将軍の座を追われて間もなく没した。その後、信長と本願寺の間で石山戦争が始まると、本願寺・三好氏によって長年拠点とされた富田は信長によって攻撃されて破壊された。更にキリシタン大名の高山右近(長房、重友)が高槻城に入ると、寺内町である富田の存在自体を許さず、度々威圧を加えたという。また、山崎の戦いの直前、織田信長の3男信孝がこの地において羽柴秀吉と合流した事でも知られている。
江戸時代に入ると、山城長岡藩や高槻藩の支配下に置かれたり、時には天領となったりもしたが、政治的・宗教的な色彩の強い富田の存在を好ましく思わなかったらしく、また自己の城下町と競合する町の存在を嫌ったために町としての特権を一切認めずに町の解体を企てたとも言われている。また、前期には酒造業が盛んだったものの、灘などの台頭に対しても領主側は積極的な対策を採らずに衰退に任せたとも言われている。
明治以後は三島郡に属して富田村・富田町となったが、昭和31年(1956年)に高槻市に合併された。
[編集] 地域
[編集] 交通
[編集] 公共施設等
- 高槻市役所富田支所
- 高槻市立小寺池図書館
- 富田公民館
- 高槻市立富田ふれあい文化センター
- 高槻市西部保健センター
- 大阪府三島救命救急センターひかり診療所
[編集] 学校
[編集] その他
- 高槻富田郵便局
- 教行寺
- 富田御坊 本照寺
- 筒井池公園