宝塚尼崎電気鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宝塚尼崎電気鉄道(たからづかあまがさきでんきてつどう、通称 尼宝電鉄(あまほうでんてつ))は、兵庫県尼崎市と宝塚市とを結ぶ鉄道路線の建設を行っていた鉄道会社である。ほぼ全線の路盤までは完成したが、鉄道として開業されることはなかった(未成線)。阪神電気鉄道の子会社である。
[編集] 概要
この路線の申請は1922年10月に行われた。西宮土地社長の前田房之助を総代とし、発起人には地元の政財界の有力者が名を列ねていた。申請時の路線は、阪神出屋敷駅と国鉄・阪急の宝塚駅とを結ぶもので、武庫川の改修工事によってできた武庫川の東岸を通り、途中に3駅を設けるとしていた。また、武庫川の廃川跡に住宅地や遊園地を建設する予定としていた。1923年7月19日、尼宝電鉄に対しこの路線の免許が下付された。
尼宝電鉄と接続することになる阪神電鉄はこの路線に目をつけ、同年7月31日には同社への出資を決定した。当時、阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)が神戸への進出を目指しており、阪神はそれへの牽制として、阪急の「聖地」とも言える宝塚への進出を考えていた所であった。それにより、尼宝電鉄は1924年2月6日に設立総会を開き、前田房之助が社長に、阪神社長の三崎省三が相談役に就任した。
尼宝電鉄は阪神尼崎駅まで延長してそこから阪神本線に乗り入れ、阪神梅田駅までの直通運転を行うこととした。また、武庫川東岸を通る当初のルートから、尼崎駅を起点として伊丹市の市街地を通るルートへの変更を申請した。起点の変更は、出屋敷起点では阪神電鉄が予定していた第二阪神線と交叉しなければならないことを理由としていたが、このルートでは既設の阪急伊丹線に近づいてしまう。
阪急はこれに対抗するため、伊丹線の両端を延長する形で宝塚~伊丹間・塚口~尼崎~西宮海岸~今津間の軌道特許を申請した。それに対抗して阪神は出屋敷~高洲~東浜~今津間の特許を申請した。結局、阪急には宝塚~伊丹間・塚口~尼崎間、阪神には申請の通り出屋敷~今津間の特許が認められた。
この新線騒動が決着した後、尼宝電鉄は伊丹市街地を通るルートへの変更を撤回し、当初ルートと伊丹市街地を通るルートのほぼ中間を通るルートで1924年6月に施行認可申請を提出した。途中阪急神戸本線や宝塚線と交叉する箇所があり、この部分についての阪急との交渉が難航した。1926年1月にようやく協定が成立し、2月に施行認可を受けた。
1927年末までには両端部を除く西大島~小浜間の路盤が完成した。しかし、両端部は着工されなかった。宝塚側は当初は終点を宝塚大劇場前としていたが、1926年5月に国鉄宝塚駅構内に変更する届を出した。これでは、阪急線・国鉄線との立体交叉区間が多くなって、工費がかさんでしまうため、着工の決断が下せなかった。尼崎側では、都市計画の支障になるとして、尼崎市から市街地の3kmを高架で建設することが要求された。尼宝電鉄では地平での建設を予定していたので、こちらも工費がかさんでしまう。それに、連絡することになっていた阪神本線は地平線であったので(尼崎付近の高架化が行われるのは1994年のことである)、尼宝線を高架にすると直通運転ができなくなる。これでは、尼宝電鉄の存在意義が半減してしまう。
1929年、尼宝電鉄は開業延期を申請し、既に完成している路盤を使ってバスの営業を行う方針に転換した。1929年7月25日に尼崎~宝塚間のバスの営業願いを提出した。路盤敷そのままではバス営業は認められないとされたため、同年11月に路盤敷を自動車専用道路に改築する申請を行った。舗装まではできたものの、その後バスを購入する資金が捻出できなかったことから、1932年6月、尼宝電鉄は阪神の子会社の阪神国道自動車(現阪神電鉄バス)に吸収合併された。同年8月には尼崎~宝塚間の鉄道起業廃止申請が行われ、11月2日付けで免許が失効した。自動車専用道路は1932年11月に完成し、12月25日より神戸~宝塚間、大阪福島~宝塚間でのバス運行が開始された。
[編集] その後
阪神の自動車専用道は1942年に兵庫県に買い上げられて一般に開放された。現在の兵庫県道42号尼崎宝塚線であり、「尼宝線」の通称で呼ばれている。なお、現在も尼宝線経由のバスは健在であり、阪急の牙城とも言える宝塚に阪神電鉄バス(尼崎宝塚線)が走っている。