安藤信成
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安藤 信成(あんどう のぶなり、延享2年2月23日(1743年3月18日) - 文化7年5月14日(1810年6月15日))は、江戸時代中期から後期の大名、政治家。寺社奉行、若年寄、老中を歴任。安藤家6代。美濃加納藩第3代藩主で、陸奥磐城平藩初代藩主。先代藩主・安藤信尹の次男。正室は越智松平武元の娘。子は安藤信厚(長男)、安藤重馨(次男)、安藤信邦(三男)。
父の信尹は、乱行が原因で隠居を命じられ、宝暦5年(1755年)に信成が家督をつぐことになった。懲罰の意味もあって、安藤家は間もなく、加納6万5,000石より陸奥磐城平藩5万石に減転封させられた。 その後、幕府内では寺社奉行、若年寄を経て、寛政5年(1793年)に老中に就任。在任中の功績に免じ、没収されていた美濃領のうち1万7,000石を加増され、都合6万7,000石となる。
藩政として瞥見すべき点は、平に入封後、藩校・施政堂を城下の八幡小路に創設した点である。ここでは漢学、四書五経、国語、小学、通鑑、習字をはじめ、兵法・洋学が教育された。文化7年(1810年)死去。信成には長男・信厚があったが廃嫡し、次男・重馨に家督を継がせた。
[編集] 略歴
- 1743年(延享2年) 生誕
- 1755年(宝暦5年) 家督をつぐ
- 1756年(宝暦6年) 磐城平に転封
- 1781年(天明元年)5月11日 寺社奉行
- 1784年(天明4年) 4月15日 若年寄
- 1793年(寛政5年) 8月24日 老中
- 1810年(文化7年) 5月14日 死去
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