宇佐海軍航空隊
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宇佐海軍航空隊(うさかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。爆撃機・攻撃機の搭乗員の教育を推進するため、生徒・学生・練習生への実機練習を推進した。太平洋戦争末期には、駐留する宇佐飛行場に特攻作戦に参加する実戦部隊が展開し、訓練は停滞した。
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[編集] 沿革
ロンドン軍縮条約の期限切れとともに、海軍は戦備の大増強を画策し、通称「マル3計画」を立案した。この中に14個航空隊の増設案が盛り込まれ、爆撃機・攻撃機搭乗員の訓練部隊のひとつとして、大分県宇佐郡柳ヶ浦村に飛行場を建設し、航空隊を設置することが決定した。周防灘に面し、洋上爆撃・雷撃訓練が容易なうえに、呉鎮守府にもほど近く、航空母艦を招いての発着艦訓練も頻繁に実施できた。
- 昭和14年10月1日 呉鎮守府隷下の実用機訓練部隊として開隊。
- 昭和14年10月31日 霞ヶ浦海軍航空隊より第47期操縦練習生転入、教育訓練開始。
- 昭和14年12月1日 呉鎮守府第十二連合航空隊発足、隷下に入る。
- 昭和14年12月25日 予科練甲飛第2期生入隊。19年12月31日、13期生の転入をもって終了。
- 昭和15年2月20日 航空母艦龍驤到着、4月20日まで発着艦訓練を実施。
- 昭和15年4月1日 予科練乙飛第8期生入隊。20年1月3日、18期生の転入をもって終了。
- 昭和15年4月18日 第32期飛行学生入隊。18年9月、14期生の入隊をもって終了。
- 昭和16年7月12日 予科練丙飛第2期生入隊。18年11月25日、16期生の入隊をもって終了。
- 昭和16年10月7日 航空母艦翔鶴・瑞鶴航空隊の慣熟訓練開始。11月19日ハワイ作戦のため出撃。
- 昭和16年12月28日 ハワイ作戦より帰還した航空母艦蒼龍・飛龍航空隊到着。1月11日蘭印攻略のため出撃。
- 昭和17年12月1日 第10期飛行予備学生入隊。19年9月28日、14期生の転入をもって終了。
- 昭和19年1月25日 予科練特乙第1期生入隊。同年7月30日、3期生の入隊をもって終了。
- 昭和19年10月31日 第三航空艦隊進出決定。一式陸上攻撃機の離着陸に備えて滑走路拡張工事に着手。
- 昭和19年11月5日 ガソリン使用停止。代替アルコール燃料が使えない九七式艦上攻撃機の訓練凍結。
この頃より各地から実用機訓練部隊所属機が集結。
- 昭和19年12月上旬 陸軍航空隊に施設貸与。飛龍靖国部隊の雷撃訓練を実施。
- 昭和20年1月14日 アルコール燃料に起因する九六式艦上爆撃機の墜落・出火事故が激増し、九六艦爆の訓練凍結。
- 昭和20年2月9日 豊橋飛行場より第七〇一海軍航空隊が進出。以後実施部隊が集結。
- 昭和20年2月16日 特攻隊編成命令が宇佐空に下令。のち「八幡皇護隊」と命名。
- 昭和20年3月1日 第十航空艦隊新編、十二連空は隷下に入る。
- 昭和20年4月3日 第1八幡皇護隊、串良飛行場に進出。以後、後続隊も進出。
- 昭和20年4月6日 第1八幡皇護隊36機出撃。生還3機。
- 昭和20年4月12日 第2八幡皇護隊36機出撃。生還9機。
- 昭和20年4月16日 第3八幡皇護隊24機出撃。生還3機。
- 昭和20年4月17日 第4-9八幡皇護隊に本土決戦準備下令、特攻作戦より離脱。
- 昭和20年4月21日 柳ヶ浦飛行場に敵機30機襲来。飛行場施設壊滅、死者300名以上。柳ヶ浦町内も被害甚大。
- 昭和20年5月5日 解隊。
4月21日の空襲で、使用に耐えうる機体は僅か4機となっているうえ、飛行場には決戦部隊が集結していることから、宇佐での訓練は続行不能となっていた。以後は基地航空隊の西海海軍航空隊が管轄する飛行場として実施部隊の退避基地として機能したが、空襲被害は終戦まで続いた。
[編集] 主力機種
[編集] 歴代司令
- 内田市太郎(昭和14年10月1日-)
- 松岡知行(昭和15年10月15日-)
- 伊藤良秋(昭和17年4月10日-)
- 三浦艦三(昭和18年1月20日-)
- 山田豊(昭和18年4月1日-)
- 山本栄(昭和18年12月1日-)
- 浜田武夫(昭和18年12月25日-)
- 直井俊夫(昭和19年7月10日-昭和20年5月5日解隊)
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『日本海軍編制事典』(芙蓉書房出版 2003年)
- 『航空隊戦史』(新人物往来社 2001年)
- 『日本海軍航空史2』(時事通信社 1969年)
- 『戦史叢書 海軍航空概史』(朝雲新聞社 1976年)
- 『宇佐海軍航空隊始末記―艦上攻撃機、艦上爆撃機メッカの全貌』(光人社 2005年)
- 『参拾壱 頁』(個人サイト)
- 『連合艦隊海空戦戦闘詳報別巻1』(アテネ書房 1996年)