子嬰
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子嬰(しえい、? - 紀元前206年、在位:紀元前207年 - 紀元前206年)は、秦王朝の最後の君主。史料では秦王子嬰とも呼称される。
[編集] 略歴
秦に対する反乱が全土に広がり、秦政府の力では対処出来なくなっている最中、丞相の趙高のクーデターにより、二世皇帝が自殺させられると、混乱する人心の安定を図る趙高により、秦建て直しの切り札として、器量に優れ、人望も厚い子嬰が秦王として擁立されることとなった。
しかし、この直前に趙高が、当時咸陽の近くにまで攻め入っていた反乱軍の将軍・劉邦に内応して、秦王の首を持参して関中の王になろうとしているとの噂が広まり、危険を感じた子嬰は、秦を食いつぶす元凶でもある趙高とその一党の粛清を決意。即位式当日に急病と称して欠席し、使者が何度も訪れても断り続けた。これに業を煮やした趙高が自ら寝所まで説得に出向いて来た際、側に伏していた息子や腹心の部下によりこれを討った。続いてその一党も粛清した。
しかし時すでに遅く、劉邦の率いる反乱軍は咸陽の目前に迫っていた。ことが決したことを悟った子嬰は、白い馬、白い馬車、白装束という葬式される死人の装い、更に首に縄を掛け玉璽を持って劉邦に降伏。その一族ともども身の安全を保証された。
しかし、劉邦に続いて、項羽が咸陽に入ると、かつて始皇帝が諸国を滅ぼした罪等を持ち出され、一族ともども処刑された。
[編集] 脚注
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