大岡忠烈
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時代 | 江戸時代 | |||
生誕 | 明和4年11月9日(1767年12月29日) | |||
死没 | 弘化元年12月18日(1845年1月25日) | |||
別名 | 鶴次郎(通称) | |||
墓所 | 玉峰山龍門寺 | |||
官位 | 従五位下丹後守 | |||
主君 | 徳川家斉 | |||
藩 | 武蔵国岩槻藩主 | |||
氏族 | 大岡氏 | |||
父母 | 父:大岡忠喜、養父:大岡忠要 | |||
兄弟 | 忠要、忠烈 | |||
子 | 養子:忠正 |
大岡 忠烈(おおおか ただやす、明和4年11月9日(1767年12月29日) - 弘化元年12月18日(1845年1月25日))は江戸時代の大名、武蔵国岩槻藩第4代藩主。大岡忠房家7代当主。大岡忠喜の次男。
天明6年(1786年)に弱冠21歳で兄の3代藩主・大岡忠要が亡くなった為に家督を相続して、忠烈は岩槻藩主になる。
子宝に恵まれず、叔父の加納久周の三男の加納久成を忠烈は養子とし、大岡忠正と名乗らせる。寛政9年(1797年)に家督を忠正に譲って忠烈は隠居する。弘化元年(1844年)に死去。享年78。
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