大岡忠喜
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時代 | 江戸時代 | |||
生誕 | 元文2年11月27日(1737年12月18日) | |||
死没 | 文化3年11月2日(1806年12月11日)) | |||
墓所 | 玉峰山龍門寺 | |||
官位 | 従五位下兵庫頭 | |||
幕府 | 江戸幕府奏者番 | |||
主君 | 徳川家治 | |||
藩 | 武蔵国岩槻藩主 | |||
氏族 | 大岡氏 | |||
父母 | 大岡忠光 | |||
兄弟 | 大岡忠喜、加納久周、巨勢至方、 長君(牧野忠寛正室)、横田以松正室 |
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妻 | 正室:井上正経の養女(本多忠強の娘) 継室:田沼意次の養女(新見正則の娘) |
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子 | 忠要(長男)、娘(水野忠韶正室) 忠烈(次男)、娘(松平信圭正室) 娘(三宅康友正室)、娘(小笠原信喜養女) 娘(本多政房継室)、娘(小笠原政恒継室) |
大岡 忠喜(おおおか ただよし、元文2年11月27日(1737年12月18日) - 文化3年11月2日(1806年12月11日))は江戸時代の大名。武蔵国岩槻藩第2代藩主。大岡忠房家5代当主。大岡忠光の長男。
宝暦3年(1753年)、将軍家初見。翌、宝暦4年(1754年)、菊間詰、従五位下兵庫頭。宝暦10年(1760年)、父・忠光の死去により、大岡家の家督を継ぐ。同年、雁間詰、奏者番に就いた。安永元年(1772年)、奏者番を辞す。忠喜は病気がちだった為、天明2年(1782年)に家督を長男の忠要に譲り、隠居した。文化3年(1806年)に死去。享年69。
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