大内弘世
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大内 弘世(おおうち ひろよ、1325年(正中2年)?-1380年12月12日(天授6年/康暦2年11月15日))は、南北朝時代の守護大名。大内氏の第9代当主。第8代当主・大内弘幸の嫡男。子に大内義弘、大内弘正、大内盛見、大内弘茂。
大内氏は北朝を擁立する室町幕府に従うが、幕府において家内の対立から観応の擾乱と呼ばれる内乱が発展し、足利尊氏が足利直義に対抗するために南朝に降伏して正平一統となる。大内氏は南朝との和睦が取り消されても足利直冬父子に属し、弘世は南朝の武将として満良親王を奉じて長門国などへ勢力を拡大して厚東氏を討伐する。2代将軍足利義詮時代の1363年に幕府の勧誘で帰順し、長門・周防国の守護に任じられた。
1366年、石見国の南朝勢力を駆逐した戦功により、石見守護に任じられる。1371年からは九州探題となっていた今川貞世(了俊)を助けて大宰府攻略や南朝勢力の攻略に戦功を挙げた。1374年、安芸国の毛利氏を攻めたが、3代将軍・足利義満から咎められて石見守護職を剥奪されたため、撤兵した。1380年に死去し、後を子の大内義弘が継いだ。法号は正寿院玄峰道階。
弘世は本拠を大内館から山口へ移転し、京都に倣った都市計画に基づく市街整備を行う。
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