大久保房男
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大久保 房男(おおくぼ ふさお、1921年9月1日 - )は、編集者、作家。
三重県北牟婁郡紀伊長島町(現紀北町)生まれ。旧制津中学校を経て慶應義塾大学国文科で折口信夫に師事、学徒出陣で1943年に出征。海軍予備学生(第4期)を経て1944年暮に海軍少尉となったが、敗戦により復員し、1945年10月に復学、1946年9月に卒業。民俗学徒を目指していたが、たまたま入社試験を受けた講談社に合格し、同年11月、同社に入社。1955年から1966年まで『群像』の編集長を務め、「文学の鬼」と言われて、石原慎太郎の作品を一切掲載せず[1]、活気ある誌面を作った。引退後、小説『海のまつりごと』で1982年、芸術選奨新人賞を受賞、60歳の新人賞で人々を驚かせた。
霊術家の浜口熊嶽は父の従兄にあたる[2]。
[編集] 著書
- 文士と文壇 講談社, 1970
- 文芸編集者はかく考える 紅書房, 1988
- 海のまつりごと 紅書房, 1991
- 理想の文壇を 紅書房, 1993
- 文士とは 紅書房, 1999
- 人間魚雷搭乗員募集 一学徒兵の特攻 光人社, 1999 のち文庫
- 文士のゴルフ 丹羽学校三十三年の歴史に沿って 展望社, 2000
- 終戦後文壇見聞記 紅書房, 2006
- 日本語への文士の心構え すぐれた文章を書くために アートデイズ, 2006
[編集] 脚注
- ^ ただし、最初に「『群像』は古臭くて、ぼくには何の興味もない」と大久保に対して発言したのは石原の側であるという。大久保は「これは、『群像』に書く気がないと宣言したのだと思い、縁がなかったと思うことにした」「石原氏の人気が沸騰しているのに、『群像』がその作品を掲載しないのは、石原氏の文学を認めていないからだ、と世間では言っていたが、それは逆で、石原氏が『群像』を認めていないからなのだ」と述べている。『終戦後文壇見聞記』pp.279-280(紅書房、2006年)を参照。
- ^ 『終戦後文壇見聞記』p.177(紅書房、2006年)