国鉄6500形蒸気機関車
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6500形は、今の関西本線などを敷設した関西鉄道が1898年(明治31年)および1906年(明治39年)に米国のピッツバーグ社から計9両を購入して投入し、同社の鉄道国有法に基づく国有化で官設鉄道(国鉄)の所有になったテンダー式蒸気機関車である。
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[編集] 概要
関西鉄道の網島駅(廃駅)~名古屋駅間開業に伴う急行列車運転開始を前に、投入された機関車で、形式40「早風」(はやかぜ)クラスと呼ばれ、6両(製造番号1771 - 1776)が40~45に付番されたが、1906年にも3両(製造番号41429,41428,41427[1])が増備され107~109とされた。
当時の関西鉄道汽車課長島安次郎の提唱により、当時としては最大の動輪径1575mm(5'2")と2シリンダ複式が採用された。外観は典型的なアメリカ古典機スタイルであるが、ストレート形のボイラーや深いつばを持った独特のキャップを先端部に被せたストレート形の煙突、細長く大柄なワンピース形の蒸気ドームや砂箱、補強のためスポークの間にウェッブ(水かき)を設けた動輪(リム強化スポーク輪心)など、ピッツバーグ社製蒸気機関車の特徴を備えた洗練されたものであった。また、煙室扉の周囲を一段膨らませるなど、細部の造作も凝っており、ボールドウィン社などに比べて品質も良好であった。
2シリンダ複式は、単式に比べて構造が複雑で、取扱いにも熟練を要したが、石炭の消費節約に効果を発揮した。また、同社に複式機関車に好適な名古屋~亀山間のような平坦区間が存在したことも、複式機関車導入の効果を大きくした。1906年に3両が追加製造されたのも、こうした事情からであろう。
官設鉄道への編入後、1909年(明治42年)に制定された鉄道院の車両形式称号規程では6500形に定められ、番号は6500~6508に改められた。主に亀山と王寺に配属され、関西本線の平坦区間で使用されたが、複式という特殊な機構が嫌われ、1925年(大正14年)に全車が廃車解体された。
[編集] 主要諸元
- 全長:14405mm
- 全高:3658mm
- 軌間:1067mm
- 車軸配置:4-4-0(2B)
- 動輪直径:1575mm(5'2")
- 弁装置:スティーブンソン式アメリカ形
- シリンダ(直径×行程):高圧用432mm×610mm,低圧用635mm×610mm
- ボイラー圧力:12.7kg/cm²
- 火格子面積:1.24m²
- 全伝熱面積:96.8m²
- 煙管蒸発伝熱面積:89.5m²
- 火室蒸発伝熱面積:7.3m²
- ボイラー水容量:3.1m³
- 小煙管(直径×長サ×数):44.5mm×2810mm×228本
- 機関車運転整備重量:40.61t
- 機関車空車重量:36.98t
- 機関車動輪上重量(運転整備時):24.58t
- 機関車動輪軸重(最大・第2動輪上):12.32t
- 炭水車運転整備重量:22.21t
- 炭水車空車重量:13.61t
- 水タンク容量:9.08m³
- 燃料積載量:1.02t
[編集] 脚注
- ^ この時点でピッツバーグ社はアメリカン・ロコモティブに統合されており、同社のピッツバーグ工場製である。
[編集] 参考文献
- 臼井茂信「日本蒸気機関車形式図集成」1969年、誠文堂新光社刊
- 臼井茂信「機関車の系譜図 2」1972年、交友社刊
- 金田茂裕「日本蒸気機関車史 私設鉄道編 I」1981年、プレス・アイゼンバーン刊
- 金田茂裕「形式別 国鉄の蒸気機関車 III」1985年、プレス・アイゼンバーン刊
- 川上幸義「私の蒸気機関車史 上」1978年、交友社刊
- 高田隆雄監修「万有ガイドシリーズ12 蒸気機関車 日本編」1981年、小学館刊
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タンク機関車 | 形式1(1270)・形式3「池月」(500・600・700)・形式14「雷」(2100・2500)・形式17「望月」(1000)・形式21「磨墨」(870)・形式57「駒月」(220)・形式80「小鷹」(10)・形式82「友鶴」(450)・形式86「隼」(1180)・形式87「鵯」(1370)・形式88「千早」(1480)・形式93「春日」(3030)・形式98「三笠」(2800) |
テンダー機関車 | 形式9「飛龍」(5450)・形式23「鬼鹿毛」(7650)・形式30「電光」(7850)・形式40「早風」(6500)・形式110「追風」(6000) |