嘆きの壁事件
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嘆きの壁事件は、1929年8月にイスラエル(当時のパレスチナ)のエルサレムにある嘆きの壁で起こったアラブ人とユダヤ人の武力衝突。この事件がきっかけとなって約一週間の間にヘブロン(ヘブロン事件)やツファットなどパレスチナ各地でアラブ人による一連のユダヤ人虐殺が起こった。
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[編集] 歴史的背景
[編集] 嘆きの壁
70年にローマ帝国によってユダヤ教の礼拝地であるエルサレム神殿は破壊された。破壊を嘆くという意味で名づけられた嘆きの壁は、現在も残る神殿の残骸である。西側の外壁であるため西壁 (Western Wall)とも呼ばれ、祈りの場所となっている。エルサレム神殿は神殿の丘(ハラム・アッシャリーフ)と呼ばれ、ユダヤ教における聖地である。1967年の第三次中東戦争で、神殿の立つエルサレムの旧市街地を占拠するまでの約1900年間、ユダヤ教徒は自由に嘆きの壁に来て祈りを捧げることはできなかった。
イスラム教徒は672年にアル=アクサー・モスクを、692年には岩のドームを神殿跡に建て、同地をメッカ、メディナに次ぐイスラム教の3番目の聖地とした。嘆きの壁をめぐるユダヤ教徒とイスラム教徒との論争は現在も続いている。
1928年9月、男性と女性の祈祷者を分ける習慣のあるユダヤ教徒達は、嘆きの壁で行うヨム・キプルの祈りで男女の境目に複数の椅子を置いた。これをイスラム教徒はオスマン帝国時代に定められた嘆きの壁区域における「建設」禁止の項に反するとした。また、エルサレムのムフティ(イスラム法権威者)であるアミーン・フサイニーはパレスチナに住むアラブ人、世界のアラブ諸国じゅうに「ユダヤ人達がアル=アクサー・モスクを占拠しようとしている」というビラを配布し扇動活動を行った。
[編集] ディアスポラ
一方、差別に苦しむディアスポラの間では、ドレフュス事件などがきっかけでパレスチナにユダヤ人の国を作ろうという動きがますます強まっていた。1917年のバルフォア宣言でイギリスの後押しを受け、ユダヤ国の設立は一段と現実味を増した。 バルフォア宣言後、9年間で10万人のユダヤ人がパレスチナへ入植している。パレスチナの土地を所有するユダヤ人も増え、ヘブライ大学が建設された[1]。世界各国の同胞から支援を受け、政治や経済に多大な影響力を持つロスチャイルド家など強力な後ろ盾を持つユダヤ人入植者の急増に、アラブ人は危機感を募らせていた。
[編集] ベタル
1925年、ロシア系ユダヤ人のゼエブ・ウラジミール・ジャボチンスキー (Ze'ev Jabotinsky) は、修正シオニズム(Revisionist Zionism)連盟を設立した[2]。修正シオニズムはヨルダン川両岸をユダヤ国家とし、ヨーロッパから大量のユダヤ人移民を受け入れ、防衛のためのユダヤ軍団の結成を目標としていた。
ジャボチンスキーは修正シオニズム連盟設立の2年前、1923年にラトビアのリーガでベタル (BetarまたはBeitar)という青年運動組織を作っていた。ベタルは、1920年のテルハイにおけるアラブ人からの攻撃で命を失ったユダヤ人自衛のシンボルであるヨセフ・トルンペルドールの軍団という意味で、そのヘブライ語頭文字である。また2世紀のバル・コクバの乱で最後まで立っていた砦の名前でもある。名前の由来からもわかるようにベタルは戦闘活動を行っていた。彼らの多くはジャボチンスキーが後に(1931年)結成した地下戦闘組織イルグン (Irgun)のメンバーとなった。
[編集] 事件のあらまし
1929年8月15日、ユダヤ教の断食の儀式、ティシュアー・ベ=アーブの最中に、ベタルに所属する青年数百名が嘆きの壁に集まった。エレミア・ハルパーン (Jeremiah Halpern)の指揮のもと、彼らは「壁は我々のものだ!」と叫び、イスラエルの国旗(当時はシオニスト運動の旗であった)を掲げ、イスラエルの国歌(当時はシオニズムの賛美歌)を歌った。イギリス植民地統治政府は、行進について事前に報告を受け、紛争が起きないよう警察に厳重な護衛をさせた。ベタルの青年達が地元のアラブ住民を攻撃したりモハメッドの名前を汚したという噂が広がった。
翌日8月16日の金曜日(ムスリムの集団礼拝日)、扇動的な説教を聞いた後、当時のイギリス統治下においてイスラム社会の最高監督機関であったイスラム最高評議会によってデモ隊が結成された。デモは嘆きの壁まで行進し、ユダヤ教の祈りの書や、壁の隙間にはさまれていた願いごとの紙を燃やした。
ユダヤ人の抗議に対して、総督代理であったイギリス人のハリー・ルーク (Harry Luke)は「ページが燃やされただけで祈りの書全部が燃やされたわけではない。」と答えるのみであった。暴動は続き、次の日にブハラ・ユダヤ人の住む地域で一人のユダヤ人が殺された。彼の葬儀は政治的なデモとなった。
8月20日にハガナーのリーダー達がヘブロンに住む600人の古いイッシューブ達(シオニズム運動が始まる1882年以前から住んでいる者)に護衛やヘブロンからの退去支援を申し出た。しかし、ヘブロン・コミュニティーのリーダー達は、アラブの名士(A’yan)たちが保護してくれると信じているとして、ハガナの申し出を断った。次の金曜日の8月23日、2人のアラブ人が殺されたという噂に煽られたアラブ人達は、エルサレムの旧市街を攻撃し始めた。暴力はすぐにパレスチナの他地域にも広がっていった。ヘブロンは最も被害が大きく、ユダヤ人約65人が殺害され、58人が怪我を負い、女性は強姦された。(ヘブロン事件)
パレスチナ全体で、イギリス植民地政府には、たった292人の警察官、100人に満たない兵士、6台の戦車と5機ないしは6機の飛行機しかなかった。8月24日までにエルサレムでは17人のユダヤ人が殺された。そのほかにツファット、モサ (Moza)、クファル・ウリア (Kfar Uriya)、テルアビブでも殺害された。暴動のあった一週間で、ユダヤ人は合計133人が殺害され339人が負傷した(大部分がアラブ人による殺傷)。アラブ人は合計116人が殺害され232人が負傷した(大部分はイギリス植民地警察・植民地兵による殺傷)。
[編集] 脚注
- ^ エンカルタ百科辞典ダイジェスト:シオニズム
- ^ w:en: Revisionist Zionism 2007年5月29日20:44 UTC版