哀章
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哀章(あい しょう、? - 23年)は、中国の新代の政治家、武将。王莽配下の人物。益州廣漢郡梓潼県の人。
目次 |
[編集] 事跡
[編集] 王莽即位を支援
姓名 | 哀章 |
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読み・ピンイン | あいしょう〔āi Zhāng〕 |
時代 | 新代 |
生没年 | 生年不詳 - 23年(地皇4年) |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 益州廣漢郡梓潼県 |
職官 | 国将〔新〕 |
爵位・号等 | 美新公〔新〕 |
陣営・所属等 | 王莽 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
最初は長安で学問をしていたが、平素から行いが悪く、大法螺を好んだ。初始1年(8年)11月、哀章は権勢を極める王莽に取り入るため、銅匱を製造し、そこに2種類の文書を添付した。一方の文書は「天帝行璽金匱図」とし、もう一方は「赤帝行璽某傳予黄帝金策書」(某とは漢の高祖劉邦の名)としている。更にそれらには、王莽が「真天子」となること、さらに、当時の8人の大臣に加え、王興、王盛、そして哀章の11人が官爵を得て王莽を補佐すること等を書き記した。斉郡に新たな井戸が湧き、巴郡で石牛が見つかったとの話を聞くと、哀章は黄昏時に黄色い衣服を着て、銅匱を高祖廟に捧げた後、僕射に献上している。
僕射の報告を受けた王莽は、これを機会に孺子嬰を廃して、自ら皇帝に即位し、国号を新と改め、元号についても同年12月朔日をもって始建国1年と改めた。哀章も、文書に基いて国将に任命され、美新公に封じられている。また、太師王舜、太傅平晏、国師劉歆と共に、四輔として上公に列せられた。
[編集] 新での事跡
哀章は重職に就いても、やはり昔からの行いの悪さは改まらず、その涜職ぶりは王莽配下の中でも突出していた。しかも王莽は、これを戒めるどころか、哀章のために勅令を発し、その親族をも哀章のために登用するよう通達している。
地皇3年(22年)冬、反新勢力が各地で勃興してくると、哀章は「黄帝の時代に、中黄直(人物名)が大将となり、蚩尤を撃ち殺しました。現在私は当時の中黄直の位にありますので、願わくば私を山東平定に向かわせてください」と王莽に進言した。王莽もこれに従い、哀章を東方に派遣して、太師王匡(以下、本記事では「王匡 (新) 」と表記)と共に反新軍に当たらせている。
哀章は王匡 (新) と共に洛陽を守備したが、地皇4年(23年)9月、漢復興を宣言した更始帝(劉玄)配下の定国上公王匡 (王匡 (新) とは別人)率いる軍の攻撃により、洛陽は陥落した。哀章と王匡 (新) は共に降伏したが、更始帝の根拠地である宛へ護送されて処刑されている。