吉江勝保
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日本の政治家 吉江勝保 よしえ かつやす |
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生年月日 | 1900年4月8日 |
出生地 | 京都府八瀬村 |
没年月日 | 1970年9月14日(満70歳没) |
死没地 | |
出身校 | 東京帝国大学英法科 |
前職 | {{{前職}}} |
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所属政党 | |
称号・勲章 | |
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配偶者 | |
サイン | |
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元山梨県知事 | |
内閣 | {{{内閣}}} |
選挙区 | |
当選回数 | 1回 |
就任日 | 1947年4月12日 |
退任日 | 1951年4月29日 |
退任理由 | 任期満了 |
所属委員会 | {{{所属委員会}}} |
議員会館 | {{{議員会館}}} |
元首 | |
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吉江 勝保(よしえか つやす、1900年(明治33年)4月8日 - 1970年(昭和45年)9月14日)は、日本の政治家。山梨県知事。
[編集] 来歴
京都府八瀬村(京都市左京区)に生まれる。1927年(昭和2年)に東京帝国大学英法科を卒業し、内務省に入省する。警務課長から警視庁警視を経て1931年に山梨県保安課長となる。翌年には警視庁交通課長となり、戦時下には占領地司令官としてジャワ島やジャカルタに赴任し、家族は山梨県増穂町に疎開している。
終戦直後にはGHQによる民主化に際して内務省支配が解体されて公選知事の導入が検討されており、山梨県では山梨軍政部の傘下で知事の斎藤昇が食糧問題や戦災復興に務めており、1947年(昭和22年)に予定されていた第一回知事選で保守勢力から支持を集めていたが、斎藤は同年に斎藤は本省へ戻され、吉江が知事として赴任する。吉江は保守派からの支持を経て、同年3月に辞任すると知事選に出馬する。知事選では社会党勢力が分裂し、松沢一と農民運動家の大鷹貴祐が出馬したため社会党候補が票を割り、吉江は1万8218票を獲得して初代知事となる。
1948年(昭和23年)2月に吉江は十大施策を発表し、食糧増産のための山林復興や民生、保険や社会福祉、教育などの進捗や観光業振興などを提唱した。半年ごとの県政報告を約束するが、県土は戦災により疲弊しており、県有財産であった県有林も戦時下での過剰伐採により荒廃していたため水害が発生し、食糧問題や道路や橋などの復旧とともに応急措置に追われていた。
同年7月には電気・ガス税を臨時県議会において提案するものの社会党勢力により反対され、財政難のため新規の建設事業や十大施策で提唱した社会福祉制度の構想などいずれも着手できずにいた。また、吉江は文部省が廃校を促していた県立医学専門学校の存続と医科大学への昇格問題には執着していたが、県議会では新制中学の整備を優先すべきとする意見が多勢をしめ、同年には廃校となった。
県民や県議会では吉江の官僚的姿勢への批判が強く、1949年(昭和24年)には民主、社会ら4派による県総務部長更迭要求や昭和25年度予算の削減など県議会では紛糾を重ね、労働組合も反発していた。1951年(昭和26年)4月の統一地方選挙で吉江は再選を望むと、対抗馬として県議会議員の星野重次や労組幹部の竹中英太郎らによる保革連合により民主党議員の天野久が候補者に擁立され、山梨県政刷新連盟が結成される。
天野自身は出馬に慎重であったため吉江陣営では戦前から県政に影響力のあった田辺七六や河西豊太郎らに働きかけ、社会党勢力の平野力三や松沢らと反共民主化同盟を結成し、刷新連と対抗した。知事選で吉江は反共を主張して戦うものの、天野は吉江の官僚的姿勢を批判して県政民主化を掲げ、5万票差で敗北し、県議会選においても吉江陣営(政和会)は野党となった。
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吉江勝保 - 天野久 - 田辺国男 - 望月幸明 - 天野建 - 山本栄彦 - 横内正明 |