原元辰
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原 元辰(はら もととき (惣右衛門 そうえもん)正保4年(1647年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日)))は赤穂浪士四十七士の一人。赤穂藩では足軽頭、300石。
米沢藩主上杉綱勝の家臣である原七郎左衛門定辰(馬廻り100石)の長男として誕生。母は和田将監(小笠原家家臣)の娘。父定辰は承応3年(1654年)頃、故あって上杉家を離れて浪人した。
延宝3年(1675年)惣右衛門は赤穂藩主浅野長直に仕官。実弟の岡島八十右衛門も赤穂藩に仕えている。延宝7年(1679年)には赤穂藩士長沢六郎右衛門の娘を妻に迎え、彼女との間に4女を儲けたが、彼女は元禄5年(1692年)に双生児出産のために死去したという。後妻として水野七郎右衛門(姫路藩本多家家臣)の娘を迎えた。元禄6年(1693年)の分限帳には250石とあるが、元禄10年(1697年)8月14日、50石加増されて都合300石、また足軽頭に就任した。
元禄14年(1701年)3月14日、勅使御馳走役にあたっていた主君浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ。事変が起きたとき惣右衛門は伝奏屋敷に詰めていた。伝奏屋敷からの退去の指揮をとり、浅野家の什器類を運び出した。その手際のよさに幕府の目付は感心したという。
その夜、惣右衛門は大石瀬左衛門とともに第二の使者として早駕籠で赤穂へ向かった。通常15日の道程を4日で走破し、3月19日、浅野内匠頭切腹の報を赤穂へ知らせた。
家老大石内蔵助は総登城を命じ、連日評定が行われた。評定は篭城討死か開城恭順かで対立。惣右衛門は開城恭順を主張して大石内蔵助に異議を申し立てる家老大野九郎兵衛に詰め寄り退去させている。
惣右衛門は赤穂城明け渡し後は大坂に住み、大石内蔵助の御家再興運動の補佐をしたが、同年9月、仇討ちを主張する急進派を説得するため大高源五らと江戸へ下ると逆に堀部安兵衛らに同調して急進派の中心となってしまう。惣右衛門は京都山科に赴き大石内蔵助に仇討ちの決行を迫っている。仇討ちを決行しようとしない大石内蔵助に業を煮やした急進派は一時、惣右衛門を旗頭に討ち入りをしようと図っている。
元禄15年(1702年)7月、幕府は浅野内匠頭の実弟浅野大学の広島宗家永預けの処分を決めた。御家再興の望みはなくなり、京都円山の会議で大石内蔵助は仇討ちを決定する。10月、惣右衛門は岡島八十右衛門、間喜兵衛らと江戸へ下る。
12月14日の吉良邸討ち入りでは、表門隊に属し、大石内蔵助を助けて司令にあたった。邸内侵入の際に屋根から滑って足を捻挫したため、泉岳寺への引き上げの際は駕籠に乗せられている。
細川越中守屋敷へお預けとなり、元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により切腹。享年56。 切腹の折、3歳だった息子は享保8年(1725年)広島藩浅野本家に250石にて召抱えられる。菩提を弔うための供養墓が福昌山 圓隆寺にある。
仇討ちを決行しない惣右衛門を老母が自害して諌めたという話が伝わるが、後世の創作である。