北前船
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北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて、上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から関門海峡を経て瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)、及び、この航路を行きかう船のことである。航路は後に蝦夷地(北海道)にまで延長された。
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[編集] 概要
畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。特に、朝鮮半島からは、海流の無い瀬戸内海を経由するより対馬海流に乗った方が早く畿内に到達出来るため軍事的にも重要であり、白村江の戦い(663年)に日本が敗北すると、九州や瀬戸内海沿岸のほかに、この内陸水運ルート上にある琵琶湖西岸にも古代山城が築かれている。この内陸水運ルート沿いの京に室町幕府が開かれ、再び畿内が日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。
江戸時代になると、例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、1639年(寛永16年)に、兵庫の北風家の助けを得て、西回り航路で100石の米を大坂へ送る事に成功した。これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであるとされる。また、外海での船の難破などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。さらに、各藩の一円知行によって資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府が鎖国政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。
一方、1672年(寛文12年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽国の米を大坂まで効率よく大量輸送するべく河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされる。西回り航路の完成で大坂市場は天下の台所として発展し、北前船の発展にも繋がった。ちなみに江戸時代の和船では、通常は年に一航海で、二航海できる事は稀であった。
明治時代にスクーナー(Schooner)などの西洋式帆船が登場すると、年に三航海から四航海が可能となった。しかし明治維新による封建制の崩壊や電信・郵便の登場により、相場の地域的な格差が無くなり、一攫千金的な意味が無くなった。さらに日本全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道にシフトしていき、北前船は役目をほぼ終えて歴史の表舞台から姿を消した。
[編集] 北前船の一年
1年1航海の場合
- 下り(対馬海流に対して順流)
- 3月下旬頃、大坂を出帆。
- 4月~5月、航路上の瀬戸内海・日本海で、途中商売をしながら北上。
- 5月下旬頃、蝦夷が島(北海道)に到着。
- 上り(対馬海流に対して逆流)
- 7月下旬頃、蝦夷が島を出帆。
- 8月~10月、航路上の寄港地で商売をしながら南下。
- 11月上旬頃、大坂に到着。
北陸など各地の北前船の船員は、大坂から徒歩で地元に帰って正月を迎え、春先にまた徒歩で大坂に戻ってきた。
[編集] 北前船の寄港地
最速達では以下の港に寄っていた。各地に見張り役人を置き、途中の要所には毎夜薪を上げて船からの目標とさせた。
ほかに兵庫津、脇野沢、鰺ヶ沢、佐井、鞆、大間、三厩、大畑、蟹田、野辺地、上ノ国、田名部、川内、熊石、七尾、境港などにも寄っていた。
下り荷(北国方面)に関しては以下の通りである。 蝦夷地の人々への日常生活品(酒類・飲食品類・衣服用品・煙草)、瀬戸内海各地の塩(漁獲物処理に不可欠)、紙、砂糖、米、わら製品(縄・ムシロ)・蝋燭(原産地は瀬戸内)米・酒etc
上り荷(畿内方面)は殆どが海産物で下り荷ほど種類は多くない。ニシン(商品作物栽培のための肥料)、しめ粕、数の子、昆布、イワシ粕etc
北前船の往来は周辺地域に大きな影響を与えた。一つは周辺農村の生産力の増加である。積荷のなかには冬の間の農閑期を利用した副業(プロト工業化)によるものもある。それらの需要が高まるにつれ、商品が優先的効率的に生産された。もう一つは造船基地の発生という可能性で、港地が船修理、船建造の作事を任されていたという。これらのことが周辺地域にも流通面を超えた影響があったと思われる。
[編集] 北前船で活躍した主な船主
[編集] 北前船を主要テーマとする博物館
- 北前館 - 兵庫県豊岡市
- なにわの海の時空館 - 大阪府大阪市
- 石川県銭屋五兵衛記念館 - 石川県金沢市
- 北前船の里資料館 - 石川県加賀市
- みくに龍翔館 - 福井県坂井市
[編集] 備考
- 新日本海フェリーが舞鶴・敦賀・新潟・秋田・小樽・苫小牧に寄港することから、現代の北前船と呼ぶことがある。
- 歌手の鳥羽一郎は新日本海フェリーの小樽~新潟航路をテーマにして昭和北前船という歌を歌った。
- 佐渡国小木民俗族博物館では、原寸大で復元された北前船があり、中に入ることもできる。
[編集] 参考文献
- 牧野隆信『北前船の研究』(法政大学出版、2005年OD版) ISBN 4-588-92026-X
- 高田 宏『日本海繁盛記』(岩波新書、1992年) ISBN 4-00-430208-0
- 加藤貞仁『海の総合商社 北前船』(無明舍出版、2003年) ISBN 4-89544-328-0
- 加藤貞仁『北前船 寄港地と交易の物語』(無明舍出版、2002年) ISBN 4-89544-317-5
- 清水金二『北前船と日本海の時代』(校倉書房、1997年) ISBN 4-7517-2730-3
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 北前船~未来海道ものがたり~(石川県)