北信愛
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 | |||
生誕 | 大永3年(1523年) | |||
死没 | 慶長18年(1613年) | |||
改名 | 信愛、松斎 | |||
別名 | 剣吉彦太郎 | |||
墓所 | 萬松山大雄寺 | |||
官位 | 左衛門佐、尾張守 | |||
主君 | 南部晴政→晴継→信直→利直 | |||
藩 | 陸奥国盛岡藩家老 | |||
氏族 | 三戸南部氏流北氏 | |||
父母 | 父:北致愛 | |||
兄弟 | 信愛、妹(桜庭光康室) | |||
子 | 愛清、定愛、秀愛、直継、愛邦 養子:北信景、孫:三戸清乗 |
北 信愛(きた のぶちか)は、三戸南部氏の一族。三戸南部氏21代惣領南部信義の嫡孫。通称は剣吉彦太郎、北左衛門佐、北尾張守とも名乗った(左衛門佐・尾張守は僭称である)。子に北愛清、北定愛、北秀愛、養子に北信景、孫に三戸清乗がいる。
[編集] 生涯
元亀2年(1571年)から起きた「屋裏の変」では、田子信直(後の南部信直)を保護し、南部晴政と対立した。南部晴政隠居後は、南部晴継(晴政の子)を補佐した。晴継元服時には、烏帽子親として加冠の儀を執り行っている。
天正10年(1582年)、南部晴継が殺されて家督相続問題が発生すると、南部信直の擁立に尽力した。その後は信直の側近となり、内政や外交面で南部氏を取り仕切った。天正15年(1587年)には加賀の前田利家を訪ねて鷹を献上し、豊臣秀吉に臣従する意思を示している。天正19年(1591年)の九戸政実の乱においても、上洛して秀吉に援軍を要請した。慶長3年(1598年)、花巻城代を勤めていた三男・秀愛が死去したことにより、花巻城代に就任した。
翌慶長4年(1599年)、信直が死ぬと隠居しようとしたが、後を継いだ南部利直は許さず、なおも側近として重用される。その背景には八戸南部氏に対抗する人物がいなかった為とも言われているが事の次第は不明である。同年、剃髪して松斎と号す。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して花巻城を守備した。同年、密かに領土拡大を狙った伊達政宗が煽動した和賀忠親の一揆勢に花巻城を襲われたが、何とか守りきった。
慶長18年(1613年)、死去。享年91。信愛亡き後の北家は、北宗家三戸家と南氏系北家に分かれ幕末まで続いていく。
信愛の嫡男・愛清は大館表の戦いの後に安東氏側の捕虜になるも連行される途中に自害した。愛清と家臣を含めた13人は現在、火伏の神として十三騎神社に祀られている(北愛清は、聞老遺事・奥羽永慶軍記などの書物では、北弾正と記載されている。大館表の合戦で討死したとなっているが、捕虜になったのが愛清であって討死したのは、異母弟・北内蔵助愛邦である。よく二人は同一人物のように書かれているが、実際は異なる人物である)。幕末の南部藩の家老・三戸式部はこの北愛清の子孫と言われている。九戸政実は南部氏の武闘派と言われているが、北信愛は南部氏における知将といえるかもしれない。
信心深い一面もあり、合戦の際には髻(もとどり)に観音像を忍ばせ、戦場に向かったという。
[編集] 出自
北信愛は南部氏の一族というのが通説であるが、家系が定かではない。『奥南旧指録』は第3代当主南部時実の四男北宗実を祖とし、その子を宗愛としているが、その後を伝える系図は無い。
『参考諸家系図』は信愛の父・剣吉致愛を南部氏第21代信義の子とし、外祖父剣吉五郎に養育された後、家督を継いだとしている。異説として致愛は信義の弟・堤光康の孫に作る説など諸説ある。藤原姓の工藤氏の出とする既述の説もある。また、各種南部氏系図の中で、信愛の祖父とする信義に子供があったと伝えるものも無い。