勧修寺光豊
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勧修寺 光豊(かじゅうじ みつとよ、天正3年12月7日(1576年1月7日) - 慶長17年10月26日(1612年11月18日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公家(公卿)。
堂上家(家格は、名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)である勧修寺家の15代当主。
[編集] 経歴
准大臣・勧修寺晴豊の子。母は、刑部卿兼陰陽頭・土御門有脩の娘。室は、飛騨守・太田一吉(臼杵城主)の娘。実子に、右兵衛佐・勧修寺教豊、養子に、弟である参議・坊城俊昌の子で権大納言・勧修寺経広など。
天正3年(1575年)、勧修寺晴豊の子として生まれる。天正11年(1583年)に元服する。慶長4年(1599年)、正四位上・参議に叙位・任官する。徳川家康によって江戸幕府が開府されると、幕府初の武家伝奏として幕府との関係融和に尽力した。
慶長17年(1612年)10月25日、病身の際に従二位・権大納言に昇叙されるが、10月26日に死去。享年38。贈内大臣。
日記に「光豊公記」があり、江戸時代初期の歴史を知る上では重要な史料である。