加納城
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加納城 (岐阜県) |
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加納城址(本丸石垣・堀跡) |
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城郭構造 | 平城 |
天守構造 | なし、御三階櫓 |
築城主 | 奥平信昌 |
築城年 | 1601年 |
主な城主 | 奥平氏、戸田氏、安藤氏、永井氏 |
廃城年 | 1871年 |
遺構 | 石垣、堀跡 |
指定文化財 | 国史跡 |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯35度23分58.58秒 東経136度45分37.22秒 |
加納城(かのうじょう)は、岐阜県岐阜市加納丸の内にあった平城。国指定史跡。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 前期加納城
文安2年(1445年)に土岐氏の家宰の斉藤利永によって沓井城として築城された。しかし、天文7年(1538年)には既に廃城となっている。
[編集] 後期加納城
慶長6年(1601年)に岐阜城が破却され、その代わりとして築城された。建材は主に岐阜城のものが用いられ、岐阜城天守を二の丸御三階櫓として利用したと伝えられる。加納城は加納藩の藩主の居城となり、慶長8年(1603年)に奥平信昌が入った後、奥平氏の居城となった。 寛永9年(1632年)に奥平氏が嫡子がいない為に改易されると大久保忠興が入城、一時的に城主となる。その後の寛永16年(1639年)に戸田光重が入城、三代に渡って加納城主を務めるが、移封され、宝永8年(1711年)に安藤信友の居城となった。さらに時代が下って宝暦5年(1755年)に永井信陳が加納藩主となり、明治に至るまで永井氏の居城となった。
[編集] 近代
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり破却。城門などは売却された。昭和14年(1939年)、本丸跡が陸軍第51航空師団司令部となり、戦後は昭和29年(1954年)から昭和50年(1975年)まで自衛隊の駐屯地が置かれるなどした後、昭和58年(1983年)10月28日に国の史跡に指定された。
近年の発掘調査で枡形や前期加納城の土塁・礎石の跡、埋没した石垣や井戸跡、多くの土器などが出土した。遺構は調査後に埋め戻され、現在では加納公園(本丸跡)と周辺に石垣、堀跡などがわずかに見られるのみである。
[編集] 現存建物
- 岐阜市日置江 - 「飛騨牛ステーキのしらかわ」に二の丸門とされる城門が移築されている。
- 各務原市蘇原 - 何処の門かは定かでないが、2棟がそれぞれ個人宅に移築されている。
[編集] その他
- 歌川広重の「木曽海道六十九次」のうち「加納」に加納城の一部が描かれている。
- 城の大手門は北側にあり、中山道に面し、大手門前で屈曲する構成となっていた。
- 移築された岐阜城(二の丸、隅櫓)があったのは岐阜地方気象台の場所であり、「お三階」と呼ばれた。
- この二の丸御三階櫓は1728年(享保13年)に落雷による大火で焼失した。
- 加納城は2重の堀をもつ、南北に細長い城(南北約600m、東西約300m)であり、天守閣はなかった。当初は予定されていたが、時代の流れが名古屋城に移り必要性がなくなったため作られなかったという。
- 内堀は本丸を取り囲む形で配置され、外堀は、荒田川(東側)、清水川(北側)、長刀堀(西側:現在の加納長刀堀町)、そして加納中学校付近に南の外堀があった。