大久保忠興
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 正徳4年12月19日(1715年1月24日) | |||
死没 | 明和元年10月29日(1764年11月22日) | |||
別名 | 伝四郎(幼名) | |||
戒名 | 仙厳了潤大雪院 | |||
墓所 | 東京都世田谷区太子堂の教学院 | |||
官位 | 従五位下、出羽守、従四位下、大蔵大輔 大炊頭 |
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藩 | 相模小田原藩主 | |||
氏族 | 大久保氏 | |||
父母 | 父:大久保忠方 母:柳沢吉保の養女(野宮定基の娘) |
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兄弟 | 大久保忠興、大久保忠紀、大久保忠章 | |||
妻 | 正室:柳沢吉里の娘 側室:鈴木氏、岸本氏 |
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子 | 大久保忠由(長男)、大久保忠厚(次男)、 娘(野宮定和室) 娘(油小路隆彭室のち上杉勝定正室) |
大久保 忠興(おおくぼ ただおき)は、相模小田原藩の第4代藩主。小田原藩大久保家6代。
正徳4年(1714年)12月19日、第3代藩主・大久保忠方の長男として生まれる。享保17年(1732年)、父の死去により家督を継いで第4代藩主となる。江戸城本丸大手門番など比較的軽い幕府の職だけに就き、重要職には就こうとしなかった。藩財政悪化のためであり、藩財政再建のために家臣の知行を8割も借上し、倹約に務めた。宝暦10年(1760年)に郷中条目を制定し、宝暦13年(1763年)に農村復興に務めるなどしたが、直後の9月10日に家督を長男・忠由に譲って隠居する。
明和元年(1764年)10月29日、江戸で病死した。享年51。
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