前野忠康
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前野 忠康(まえの ただやす、永禄3年(1560年) - 慶長5年9月15日(1600年10月21日)?)は室町時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将。一般的には「舞 兵庫(まい ひょうご)」の名で知られている。
妻は豊臣家の老臣・前野長康の娘とされ、その縁で当初は豊臣秀次に仕え、若江八人衆の一人として各地を転戦し、そのつど武勇をあげるなど活躍した。しかし文禄3年(1593年)に秀次失脚時には豊臣諸将が秀次を見限る中、「秀次公無罪」と信じ、最後まで秀次助命に動いた石田三成に感激し、以後、三成と行動を供にした。
三成が加藤清正などに襲撃された時も、三成を命がけで護衛し、関ヶ原の戦いでは石田三成隊の前衛部隊として黒田長政隊や田中吉政隊と激戦を繰り広げ、何度も押し返すなど獅子奮迅の戦いをみせた。しかし小早川秀秋隊の裏切りなどにより西軍が敗北濃厚になると、三成の恩に報いるべく、進んで敵陣へ切り込み、嫡男とともに討死した(一説には逃亡したという伝聞もある)。