前田利政
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前田利政(まえだとしまさ 天正6年(1578年) - 寛永10年7月14日(1633年8月18日))は安土桃山時代から江戸時代の武将、加賀金沢藩初代藩主である前田利家の次男、母は芳春院。兄弟に前田利長、前田利常ほか。妻は蒲生氏郷の娘。子に前田直之。孫四郎。
尾張国荒子城(愛知県名古屋市)に生まれる。佐々成政の養子に予定されていたが、後に佐々家と手切れとなったため実現しなかったという説がある。文禄2年(1593年)に能登国七尾城の城主となり、慶長4年(1599年)に父の利家より能登に所領を分与されて大名となった。利家の死後に慶長5年(1600年)に五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して五大老の徳川家康に対して挙兵すると、兄・利長と共に東軍に属し関ヶ原に向かう途中、北陸の西軍方大聖寺城の山口宗永を陥れた。しかし、途上で突如利長たちは金沢へ引き返した。一説には敦賀城主大谷吉継側の謀略によるといわれる。このため合戦に間に合わなかった。金沢城へ引き返したあと利長が再出陣した際に利政は動かなかった。その原因は妻が三成の人質となっていたたとも、元々豊臣方であったためとも、どちらが敗れても前田氏の家名を残そうとする策であったともいわれる。だが、大坂の陣で中立を通し10万石の大名にする打診を受けた際、「関東方(徳川)に忠節を尽くすためではない。」と断っていることから、豊臣家に対する忠節心からの行動であったとも考えられる。[要出典]
戦後、西軍が敗れたために利政は能登の所領を没収され、その所領は兄に与えられた。その後は京都の嵯峨に隠棲し、宗悦と号した。本阿弥光悦とも親交があったとされる。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、両陣営から誘いを受けたが中立を決め込んだという。戦後、西軍の誘いに乗らなかった利政の行動に家康は気に入り、利政を10万石の大名取り立てる打診をした。しかし利政は「自分は大野治長の指揮下に入りたくなかっただけで、関東方(徳川)への忠節を尽くす行動ではない。」と家康の打診を辞退した。寛永10年(1633年)京都の町人角倉与市邸で死去。また長女は角倉家に嫁いでいる。享年55。
[編集] 関連
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