六角橋
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六角橋(ろくかくばし)は、神奈川県横浜市神奈川区の地名である。六角橋一丁目から六角橋六丁目の4か町から成る。正式には「ろくかくばし」であるが、読みづらいので「ろっかくばし」と読まれている。なお、この地にある商店街の名前は六角橋商店街(ろっかくばししょうてんがい)である。
この地域の最寄り駅は、東急東横線白楽駅・東白楽駅、横浜市営地下鉄3号線岸根公園駅である。 古くからの住宅街且つ起伏に富んだ地形なので、大きな通りから1本入ると、坂や狭い道になる所が多い。狭い急坂を下ったら階段や行き止まりということもあるので、車を運転する人は注意する必要がある。
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[編集] 概要
ほぼ全域 住宅街である。 大正期までは神大寺寄りの内陸部を中心に純農村の姿をとどめていたが、大正期の私鉄開通と関東大震災、太平洋戦争の空襲に因る市街地からの移住を契機に、多くの人が住むようになった。 特に昭和初期に横浜専門学校(現神奈川大学(略称:神大/じんだい))が六角橋三丁目、六角橋四丁目に移転してきて以来、学校周辺から駅周辺にかけて小規模商業施設が集積し、六角橋一丁目~六角橋三丁目辺りは学生街として賑っている。 神奈川大学は学校の敷地の高さを坂の下側の校舎に合わせているため、六角橋四丁目のグラウンド・テニスコートはその周辺の住宅と約-20mの高低差がある。
横浜市営地下鉄の計画当初のルートは、横浜上麻生線の地下を通す案であったが、住宅街の直下を走ることによる騒音を懸念した住民が建設に反対したため、現在の三ツ沢~片倉廻りのルートになった。しかしこの反対運動の実態は、横浜駅・関内・みなとみらい方面へ買い物客が流出することを恐れた商店街の関係者たちによる妨害に過ぎなかったとの見方もある。
皮肉なことに市営地下鉄が開通してからも商店街の衰退は続いている。廃業した商店に代わって新築マンションやパチンコ屋が目立つようになった。
六角橋四丁目~六角橋六丁目は主に住宅街である。六角橋四丁目13番には、私立の白百合幼稚園があったが、学費が安い近くの捜真女学校系列の捜真幼稚園に入園者が流れてしまったこともあり、廃園になった。六角橋五丁目10番にある宝秀寺には、日本武尊が泊まったとされる「大伴久応の庵」の跡と「大伴久応之墳碑」がある。
漫画家の望月三起也が住んでおり、かつては山本リンダ、矢沢永吉、作家の矢作俊彦が住んでいた。隣の篠原台町には五木寛之の仕事場がある。
[編集] 六角橋商店街
東急東横線白楽駅の西側の旧綱島街道沿いに伸びる、長さ約500mの六角橋商店街は、戦前から続く市内有数の商店街で、横浜三大商店街の一つである。 古くから小机~神奈川宿間の街道筋で、付近の農村から農産物や生糸が横浜方面運ばれるため、農家相手の商店が多くあった。戦後すぐにバラック小屋が集まる闇市として発展し、現在の商店街の形となっていった。
現在では約160の店が軒を連ねている。旧綱島街道から1本入ると、アーケードに覆われた「仲見世通り」がある。すれ違うのがやっとの通路の両側に、雑貨屋、総菜屋、肉屋、魚屋、八百屋など、どこの商店街にもある定番の店から、今ではあまり見かけられなくなった、乾物屋、金物屋、呉服屋、下駄屋、草履屋などが所狭しと並んでいる。
六角橋交差点寄りにある鉄道模型の店「だるまや」はその道では有名である。交差点側の入口の「知ったかぶりのブタ」というラーメン屋は、2005年に六角橋六丁目から人通りの多い当地区に移転してきた。 昔は六角橋(白楽)にも映画館があり、静岡銀行がある所に「白鳥座」、商店街半ばのパチンコ屋がある所には「紅座」という映画館があった。
昭和30年代の建物が多く残っており、しばしばテレビドラマの撮影などに使用される。 かつては横浜市電六角橋線の終点が六角橋交差点付近にあり、多くの買い物客で賑っていた。(現在の六角橋一丁目1番に切符売り場があった)
旧綱島街道など、神奈川大学から白楽駅に至る道は車が通れる道路だが、商店街を訪れる人と学生の往来が激しいため、歩行者天国状態である。
六角橋商店街は、イベントの多い商店街としても有名である。春から秋の毎月第3土曜日の夜には「ドッキリヤミ市場」が開催される。これは、地元の神奈川大学の学生と協力して開催しているものである。閉店後の商店街を有効活用し、フリーマーケットやライブ、大日本プロレスによる商店街デスマッチプロレスが行われている。他にも、毎月6日に「六の市」、春には「春のドッキリ市」、夏には「サマーセール」「大道芸まつり」、秋には「秋のドッキリ市」「ハロウィン」、冬には「クリスマスセール」と、年がら年中催し物を開いている。
2005年の2月と3月に放火事件があり、2月の放火では、商店街の約10分の1の店が被害を受けた。昭和30年代からの木造の建物が多いため、被害が大きくなった。この被害を受け、商店街の役員から商店街の大規模改修や移設などの案も出たが、小規模店ばかりの商店街なので負担が大きく、また後継者のいない店も多いため、話が進まないのが現状である。
現在、所轄の消防署員と、地元の消防団、商店街の三者で見回りを行っている。
[編集] 地名の由来
- 町内にある宝秀寺の1695年の記録によると、日本武尊が東方へ赴く際に、この地を治めていた豪族、大伴久応(おおとものきゅうおう)という者の庵に泊った。翌朝、日本武尊が五位木(ごいぎ)という六角の木の箸で食事をし、この箸を久応に贈った。久応はこの箸に「天照大神・日本武尊」と書いて日夜拝んでいた。このことから、村名を「六角箸村」とし、後に「六角橋村」と改めたという。
- 昔、この地に架かっていた橋が六角形の材木で組まれていたので、そこから「六角橋」と名付けられた。という説もある。
[編集] 歴史
- 1400年代 - 戦国武将太田道灌が小机城攻めの時に六角橋を通ったとされる。
- 1695年 - 宝秀寺に日本武尊に関する書物が残される。
- 1871年7月14日 - 廃藩置県により、神奈川県が誕生。
- 1886年12月 - 神奈川県橘樹郡城郷村立岸根小学校の分教場として神橋小学校の前身が創設される。
- 1889年 - 市町村制施行により横浜市が誕生。六角橋村は他8村と合併し「橘樹郡城郷村大字六角橋」となる。
- 1920年 - 神橋小学校の前身が城郷尋常高等小学校に統合される。
- 1926年2月14日 - 東急東横線、丸子多摩川~神奈川間が開通する。(白楽駅の設置)
- 1927年4月1日 - 横浜市に編入され「橘樹郡城郷村大字六角橋」から「横浜市六角橋町」となる。
- 城郷村が横浜市に編入され、横浜市立神橋小学校創立。(神大寺と六角橋の間なので神橋)
- 10月1日 - 横浜市の区制施行により「横浜市神奈川区六角橋町」となる。
- 1928年12月28日 - 横浜市電六角橋線、東白楽-六角橋間開通。
- 1939年4月1日 - 高等科を併設し、神橋尋常高等小学校となる。
- 1941年4月1日 - 学制改革により、神橋国民学校となる。
- 1947年4月1日 - 学校教育法により、横浜市立神橋小学校となる。
- 1955年10月15日 - 「神奈川区神大寺町20番地」に六角橋中学校の鉄筋コンクリート造3階建の校舎が完成。
- 1930年 - 横浜専門学校(現:神奈川大学)が移転してくる。
- 1965年7月1日 - 住居表示施行により、六角橋町は「六角橋一丁目」~「六角橋六丁目」の6か町に分けられる。
- 住居表示施行の際に、六角橋中学校の所在地が「神大寺町20番地」から「六角橋五丁目33番1号」となる。
- 1968年8月31日 - 横浜市電六角橋線が廃止される。
- 1985年3月14日 - 横浜市営地下鉄3号線が延伸。(岸根公園駅の設置)
- 2002年 - 市道片倉六角橋線の片倉地区改良。六角橋地区は事業中。
- 2008年 - 市道片倉六角橋線の六角橋地区改良工事完了予定。
[編集] 施設
- 六角橋一丁目
- 六角橋商店街
- 横浜信用金庫 六角橋支店
- 三菱東京UFJ銀行 横浜白楽支店
- 大丸ピーコック 六角橋店
- 六角橋交番
- 六角橋郵便局
- 六角橋商店街
- 六角橋二丁目
- 六角橋商店街
- 神奈川銀行 六角橋支店
- 三浦藤沢信用金庫 六角橋支店
- 横浜市立神橋小学校
- 香蘭幼稚園
- 杉山大神社
- 六角橋三丁目
- 神奈川大学横浜キャンパス
- 六角橋四丁目
- 神奈川大学横浜キャンパス
- 六角橋五丁目
- 横浜市立六角橋中学校
- あおぞら保育園
- 宝秀寺
- 月影幼稚園
- 六角橋六丁目
- 横浜市営六角橋プール
- 六角橋北郵便局
- 神奈川県警交通安全センター
- 交通展示館
- 交通公園
- スーパートップ 岸根店
[編集] 隣接する町
神奈川区神大寺一丁目、神大寺四丁目、斎藤分町、中丸、栗田谷、白楽、西神奈川三丁目、港北区篠原西町、岸根町、篠原町