公孫竜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公孫竜(こうそんりゅう 生没年不詳)は中国戦国時代 (中国)の思想家。字は子秉(しへい)。名家の代表的人物で「白馬非馬説」で有名。
公孫竜は趙の人であり、生没年ははっきりしないが、大体紀元前320年から紀元前250年の間に活躍した人物である。
初めて登場するのが、燕の昭王に対して非戦を説いた時で、更に趙の平原君の客になり、恵文王に対しては兼愛を説いたと言う。この二つは墨家の思想的特長であり、公孫竜は思想的には墨家であったらしい。
しかし公孫竜が今日まで名を残しているのは何といっても論理学の成果によるものである。
公孫竜の論の代表的なものが「白馬非馬説」である。「白とは色の概念であり、馬とは動物の概念である。であるからこの二つが結びついた白馬と言う概念は馬と言う概念とは異なる。」と言う論である。もう一つ有名なもの(時期的には白馬非馬より前)が、「白くて固い石は手で触っている時には白いと言うことは解らず、目で見ている時には硬いと言うことが解らない。すなわち白いと言う概念と硬いと言う概念は両立しない。」(堅白同異)と言う論である。
この二つの論は明らかに詭弁である。実際にも陰陽家の鄒衍に「詭弁だ」と非難され、平原君の寵愛を失い、最後は憂死したと言う。その後の時代でも公孫竜には詭弁家の印象が強く、あまり良い評価は得られていなかった。
しかし公孫竜を再評価する動きも次第に現れ始めている。公孫竜が生きた当時は諸子百家の議論が非常に活発な時代であり、それと共に論理学の重要性が認識され始めていた。その中で公孫竜は概念と概念とを明確に区別することが重要であることを説明するために、白馬非馬説のような極端な話題を持ち出したと考えられる。
ちなみに、「白馬非馬説」は『韓非子』にも描かれている。児説という人物が白馬に乗り関所で馬の通行税を支払わないために公孫竜の「白馬非馬説」を説くものの、役人が頑として聞かず結局は馬の通行税を支払う、という話である。
著書として『公孫竜子』があり、『漢書』芸文志には十四巻あると書かれているが、現存するのは六巻のみである。しかしこの『公孫竜子』が公孫竜本人の手によるものとは考えにくく、当時書かれたものかどうかも怪しまれる。
[編集] 外部リンク
- 『公孫竜子』(繁体中国語)