八田村
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八田村(はったむら)は、山梨県中巨摩郡に存在した村。地名は、開墾地であることを示す「治田(はりた)」に由来か。
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[編集] 地理
県中西部、郡北東部に位置。への字型の町域で、北は東流する御勅使川を境に韮崎市南部と、東は南流する釜無川を境に竜王町と北巨摩郡双葉町、西から南にかけては白根町東部と接している。御勅使川と釜無川は町域北東部の野牛島で合流。御勅使川扇状地の北端にあたり、扇状地末端を釜無川が浸食して南北に崖を形成している。
[編集] 歴史
扇状地であるため開発は遅れ、考古遺跡も野牛島北端の赤山に隣接する韮崎市竜岡町から続く縄文時代の住居址があるほかは見られない。律令制下では巨麻郡に属していたと考えられているが、比定できる古代郷はなく、『続日本紀』承和2年4月条には葛原親王に与えられた「馬相野空閑地」とある。また、榎原には養老2年(718年)伝行基創建の長谷寺があり、本尊の十一面観音は古くから原七郷の村々の守観音であった。
鎌倉時代の在地領主も明らかでは無いが、韮崎に位置する甘利荘を領した一条氏や若草町の加々美荘を領した加々美氏など隣接する甲斐源氏の有力氏族がおり、いずれかの支配下に属していたと考えられている。櫛形町高尾の穂見神社所蔵の天福元年12月15日(1234年1月23日)銘の御正体に見られる釜無川右岸一帯を指す「八田御牧」に対し、天文13年(1544年)には八田荘を示す史料があり、中世には開発が進み牧場から荘へ発展したと考えられている。しばしば御勅使川の水害に見舞われていたため、武田氏による治水工事が行われ、六科姓端に堤防(将棋頭)を築き流路を北東の現流路へ分流させた。治水工事が施されると、透水性のある砂礫を含む肥土を活かした穀倉地帯となった。また、徳永の長盛院近辺は武田氏家臣である金丸筑前守虎義の居館であったと伝わる(金丸氏屋敷跡)。
近世には巨摩郡西郡筋に属し、六科、野牛島、上高砂、下高砂、徳永、榎原の六ヶ村。全村が江戸幕府領で、甲府藩領を経て享保9年(1724年)には再び幕府領として甲府代官支配となる。また、甲州三堰のひとつ徳島堰の開削により用水路が引かれ、灌漑が行われ扇状地の新田開発が行われた。
養蚕もさかんであったが、戦後にはブドウ、モモのほかキウイフルーツなどの果樹栽培に移行し、キウイワインの醸造や、冬の南西風(八ヶ岳颪)を利用した枯露柿生産も行われている。
[編集] 行政区域の変遷
- 1875年(明治8年)4月14日 巨麻郡六科、野牛島、上高砂の3村が合併して御影村が成立。
- 1875年(明治8年)7月15日 下高砂、徳永、榎原の3村が合併して田之岡村が成立。
- 1956年(昭和31年) 御影村と田之岡村が合併して八田村が成立。
- 2003年(平成15年)4月1日 中巨摩郡の白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町と合併して南アルプス市が成立。
[編集] 文化財
榎原の長谷寺本堂は、厨子一基、旧材1枚、棟札一枚とともに1907年(明治40年)8月28日に重要文化財指定。また、野牛島にある樹齢400年ともいわれるビャクシンの大木は1959年(昭和34年)2月9日に県指定の天然記念物。