佐竹義久
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佐竹 義久(さたけ よしひさ、天文10年 (1541年) - 慶長6年 (1601年) )は日本の戦国時代の武将で、常陸国の戦国大名佐竹氏の一族。佐竹東家の当主佐竹義堅の次男。子は佐竹義賢。東義久とも。受領名は山城守、中務大輔。武熊城主。
本家の当主佐竹義重に従って各地を転戦し、武功を挙げる。外交でも功績を収め、一族の重鎮として重用され、佐竹氏の陸奥方面の軍権を任されたという。豊臣秀吉と懇意になり、豊臣氏の代官を務め、また朝鮮出兵にも出陣した。それらの功績により、秀吉から常陸国の鹿島郡・真壁郡に6万石を与えられ、さらに豊臣氏直轄領一千石の代官も務め、大名となった。関ケ原の戦いの後に徳川家康と交渉し、佐竹家の本領安堵を取り付けたと言われるが、直後に病死とも暗殺されて死亡したとも伝わる。