佐倉城
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佐倉城 (千葉県) |
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佐倉城遠景 |
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通称 | 鹿島城 |
城郭構造 | 連郭式平山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 鹿島親幹 |
築城年 | 天文年間か |
主な改修者 | 千葉邦胤、土井利勝 |
主な城主 | 鹿島親幹、千葉邦胤 土井利勝、堀田氏 |
廃城年 | 明治6年(1873年) |
遺構 | 堀、土塁 |
指定文化財 | 佐倉市史跡 |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯35度43分19.16秒 東経140度13分0.18秒 |
佐倉城(さくらじょう)は日本の城。千葉県佐倉市にあった近世の城。
目次 |
[編集] 概要
戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤(千葉勝胤の子、ただし幹胤を親胤の時代よりも40年前の永正9年(1512年)に戦死した鹿島景幹と同一人物とする説もある)に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。だが、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。
1610年に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く(詳細は佐倉藩を参照のこと)、なおかつ初期は城主の入れ替わりがやや多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易の憂き目にあっている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている。城郭は比較的質素で天守の代わりに、三層の櫓をもって代用としている。このようなケースは関東地方を領した、要衝を預かる城郭を除き、譜代各藩にみられる。石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にしていた。
しかし明治維新後に廃城令により解体。その後帝国陸軍歩兵第二、後に第五十七連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった為に、更に佐倉城の名残は消し去られてしまった。昭和37年(1962年)3月28日市の史跡に指定され、現在は跡地の一部に国立歴史民俗博物館が建っている。
[編集] 歴史・沿革
- 天文年間、千葉親胤の命により、鹿島親幹が築城。
- 千葉邦胤が改修を試みるも、邦胤自身の暗殺により中断。
- 慶長15年(1610年)、土井利勝が普請を開始。
- 明治6年(1873年)、第一軍管東京鎮台佐倉分管が置かれ、廃城となった。
- 昭和37年(1962年)、市の史跡に指定。
- 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(20番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
[編集] 近年の状況
佐倉城は現在遺構としては門が一つ移築されているに過ぎない。ただし、この門に関しても、江戸期の建造物ではあるものの城門ではないものと考えられている。国立歴史民俗博物館建設の際、敷地一帯の発掘調査と整備が行われ、連隊当時に平削・埋立された遺構の一部(馬出し・空堀・土塁等)が復元されている。 このように、建造物は全く現存しない状況ではあるが、明治時代になって撮影されたと思われる写真が比較的多く残っており、建物の跡には写真を載せた説明の看板が設置されている。また、佐倉市の市制50周年記念事業として佐倉城再建促進協議会などにより佐倉城の再建計画が持ち上がっていたが、市の財政難などにより計画は宙に浮いてしまった(2004年に市制50周年を迎えている)。
[編集] 観光
[編集] アクセス
電車
車
- 東京方面より
- 東関東自動車道 - 四街道ICより国立歴史民俗博物館(歴博)の案内標識に従って約8km
- 成田方面より
- 佐倉城址公園駐車場有り(無料)