佐々木吉郎
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現在 | 1969年引退 |
所属球団 | 大洋ホエールズ |
国籍 | 日本 |
出身地 | 秋田県 |
生年月日 | 1940年3月15日(68歳) |
身長 体重 |
180 cm 90 kg |
守備位置 | 投手 |
投球・打席 | 右投右打 |
プロ入り年度 | 1962年 |
背番号 | 18(現役引退時) |
英語表記 | SASAKI |
初出場 | 1962年9月16日 |
最終出場 | 1969年 |
経歴 | 秋田商業高校-日本石油- 大洋ホエールズ |
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佐々木 吉郎(ささき きちろう、1940年3月15日 - )は、秋田県出身の元プロ野球選手(投手)右投げ右打ち。
目次 |
[編集] 来歴・人物
秋田市立秋田商業高等学校から日本石油野球部(現・新日本石油エネオス野球部)を経て1962年に大洋ホエールズに入団。日石時代は橋戸賞を受賞するなど社会人野球の実力者として期待されたが、無理な練習のため肘に持病を持ってしまい、プロでは大成できなかった。主に中継ぎやローテーションの谷間での先発で起用され、比較的防御率が良く当時の三原脩監督に重用された。1969年に引退後は社会人野球のコーチ・監督を歴任。
[編集] エピソード
- 秋田商高時代は当初キャッチャーだったが、試合中に突然登板を命じられ、以来投手になる。
- 1964年9月23日の巨人戦で、王貞治から1シーズン本塁打日本記録の第55号を打たれている。
- 1966年5月1日の広島戦で、1960年の島田源太郎に次ぐ球団史上2人目の完全試合を達成している。実は本当の先発は左腕の小野正一。佐々木は広島の右打者を交代させる為の「アテ馬」で、1回終了時点で交代の予定だった。しかし当時の別所毅彦ピッチングコーチから「ヒットを1本も打たれていないから、打たれるまで投げてこい」と言われ、最後まで1本のヒットも打たれることなく完投、完全試合を達成してしまった。ちなみに三原監督は同種のアテ馬作戦を度々用い、1960年の日本シリーズでも左の鈴木隆から打者2人で右の秋山登に交代させている。
[編集] 通算成績
- 202試合 8完投4完封、23勝34敗 563.2イニング 259奪三振 防御率2.94