住吉の長屋
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住吉の長屋(すみよしのながや)は建築家安藤忠雄の初期の代表的住宅建築。1979年、日本建築学会賞を受賞。
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[編集] 概要
1976年2月竣工、大阪市住吉区の三軒長屋の真ん中の1軒を切り取り、中央の三分の一を中庭とした鉄筋コンクリート造りの小住宅。外に面しては一切窓を設けず、採光や通風は中庭からだけに頼っている。玄関から内部に入ると居間があり、台所や2階に行くには中庭を通らねばならない。かねてより機能性や連続性に絶対的価値をおくことに疑問を持っていたという安藤の渾身の表現であり、関西に根付いた長屋の住み方を現代風にアレンジしたものとして高く評価される一方で、「使いにくい」、「雨の日に傘を差さないとトイレに行けない」などの当然起こりうるべき非難もあった。
[編集] 設計思想
長屋住宅は関東地方などでは一般的ではないが、京都、大阪など関西地方ではごく一般的に見られる住宅様式であり、しばしば中には中庭、通り庭や後庭などがある。 安藤自身が関西のそうした住環境に長年住み続けて、生活にとって重要である通風、採光、日照などの確保を知悉していたことから着想された。建て替えの依頼があった当初から、安藤は真ん中に中庭を作ることを決意していた。敷地は間口2間、奥行き7間で14坪しかなく、施主の当初の意向など到底反映されないと考えた安藤は、長屋をすっぱり切り取ってコンクリートの箱を入れ、抽象的な芸術に近いような物にしたいと考えた。 安藤曰く「単純ではあるけれども実際には単純ではない、物理的にはどれほど小さな空間であっても、その小宇宙のなかにかけがえのない自然があり豊かさがあるような住宅をつくりたかったのです。」(安藤忠雄著 『建築を語る』)と述べている。また、全体の約三分の一を中庭にすることで、建ぺい率60%でも敷地いっぱいに建てられる合理性もあると考えた。また、西洋的な環境の中に日本的感性を持ち込むため、日本建築で採用されてきた寸法を採用し、7尺5寸(約2.25m)という天井の高さを決めたとされるが、これが何を意味するのかは不明である。なお、内装材や家具などは天然素材を使用、床は石材、フローリング・家具は木材である。少しは住み手の精神的な安定にもつながっていくのではないかと考えたからとされるが、コンクリート住宅が人に精神的安定をもたらさないことを理解していたことの証拠でもある。
多くの批判的意見に対しては、「このあたりの小さな町屋の空間の記憶、生活の歴史や伝統、といった人間が生活する上で切ることのできない要素をかつての建物の形や材料を用いることで直接伝承するのでなく、リチャード・セラやケリーの絵ではないが、徹底的に抽象化していった幾何学的な四角い箱のなかに、関西の人たちが営々と住み続けていた町屋という伝統的な住まい方や、自然に対する考え方、そういったものをすべて一気に封じ込められた」と自画自賛している。
[編集] 評価
コンクリート打ちっ放しの発想を住宅に持ち込み,その後の多くの建築家に与えたインパクトは決して色褪せておらず、未だに多くの見学者が押し寄せているが、個人の住宅であり内部の見学はできない。
[編集] エピソード
かつて吉田五十八賞という由緒ある建築賞の候補に上がった際、最終選考の段階で、当時の建築界の重鎮、故村野藤吾が建物を見に訪れた際、開口一番「よくできているね」と言ったあと、「この建物の良し悪しはともかくとして、この狭い中で生活が営まれていることに感銘を受けた。住み手に賞を与えるべきであろう」といってその場を去った。結果は落選であった。
[編集] 外部リンク
- 住吉の長屋(建築+街並探訪ウェブページ)
- No2 住吉の長屋 安藤忠雄(楽天ブログ内ページ)
- 「非常識な家」ささえた施主の理解と忍耐