令子内親王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
令子内親王(れいし(よしこ)ないしんのう、承暦2年5月18日(1078年6月30日) - 天養元年4月21日(1144年5月25日))は、平安時代後期の皇族。賀茂斎院。白河天皇の第3皇女で、母は中宮藤原賢子(右大臣源顕房女・関白藤原師実養女)。同母兄弟に堀河天皇・媞子内親王(郁芳門院)・禛子内親王らがいる。鳥羽天皇の准母。二条太皇太后または二条大宮と号した。
承暦2年5月に誕生し、その世話は師実室の源麗子が行った(『栄花物語』より)。翌年内親王宣下。応徳元年(1084年)准三宮になり、寛治3年(1089年)弟堀河天皇の斎院に卜定された。斎院在任中の永長元年(1096年)に歌合を主催。康和元年(1099年)病により退下し、中納言源国信の五条坊門東洞院第に入った。嘉祥元年(1106年)3月2日、新築の二条院(二条北堀河)に引っ越す。嘉祥2年(1107年)甥鳥羽天皇の准母となり、彼の即位に伴い皇后に冊立。大治4年(1129年)出家。長承3年(1134年)太皇太后になったが、これは皇后から(皇太后を経ないで)いきなり太皇太后になった初例となった。天養元年(1144年)4月に67歳で崩御。上醍醐陵(京都市伏見区)に母賢子・姉媞子と共に葬られた。令子内親王は文化の保護者でもあり、女房に大弐・式部・別当・肥後・堀河などを擁して一大サロンを形成した。
なお令子内親王以後、これにならい内親王の准母立后に際しては皇后とすることが慣例となった(ただし立后の後女院とならなかったのは令子内親王だけである)。