今井澄
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今井 澄(いまい きよし、1939年11月17日-2002年9月1日)は、日本の学生運動家・医師・政治家(参議院議員)。
旧満洲帝国のハルビンで生まれる。4歳のときに帰国して千葉県に住む。医師である父の転勤に伴い、小学3年から高校までは静岡県で過ごす。1958年に東京大学に進学。60年安保闘争への関与から医学部進級試験に不合格・退学処分を受けるが翌年復学して進級。1962年の大学管理法反対闘争では自治会中央委員会議長として闘争を指揮したため再度の退学処分となる。このときともに退学処分となった1人に江田五月がいた。のちに2度目の復学。この時期は共産同ML派の大幹部であった。
東大紛争については卒業を控えていたこともあり、当初は積極的な関与を控えるつもりでいたが、紛争の発端が医学部(青医連処分)であったことと、学部生の中では最年長だったことから、最終的には中枢に近い立場になる。安田講堂攻防戦では、安田講堂防衛隊長に指名された。全共闘議長の山本義隆は、機動隊導入の直前に逮捕状が出たことと、機動隊導入後の組織防衛の観点から、東大構内から去ることとなった(本人は残留を希望していた)ため、今井が事実上学生側の現場責任者となった。全共闘が安田講堂の放送設備を使っておこなった、いわゆる時計台放送の最後のメッセージ(「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時この放送を中止します」)は今井によるものとも言われるが、これについては明確な証言はない(生前の今井も特に言及していない)。機動隊による封鎖解除に伴い逮捕され、約1年間東京拘置所に勾留された。その後3度目の復学をして、1970年に卒業、医師国家試験に合格する。
当初は都内の医療機関に勤務したが、地方の医療に関心を持っていた今井は長野県に移り、1974年に諏訪中央病院に赴任する。当地で高齢者の健康改善に取り組み、病院だけではなく地域ぐるみの在宅ケアや食生活指導による「高齢者が病院で寝たきりにならない医療」の実現を目指した。この間、1977年には安田講堂事件の判決が確定し、静岡刑務所への服役が決定するが、医学書を携えて服役中も勉強を続けた。また、今井が服役に赴くときには、多くの患者が「早く帰ってきてください」と見送ったという逸話がある。
1980年に40歳で院長に就任。慢性的な赤字経営だった病院財政を立て直し、病院経営と医療活動の改善を両立させた。1988年に院長を鎌田實に譲る。
1992年、当時の社会党から参議院長野選挙区に立候補し当選。のち民主党に移り、1998年の参議院選挙では比例代表区から当選を果たした。参議院では決算委員長・厚生委員長を歴任。
2000年に胃がんを発症し手術を受けるが、肝臓・脊髄にも転移し、2002年の通常国会閉幕後、茅野市の自宅で自らが普及に尽力した在宅の末期処置を受けながら、同年9月1日逝去。葬儀には山本義隆も参列し、友人代表として「普通の人の三倍の人生を生きた」と弔辞を述べた。晩年や葬儀の模様は鎌田實の著書『あきらめない』に詳しく紹介されている。
[編集] 著書
- 『豊かな明日への暮らしと医療-高齢化社会と地域医療』、鳥影社、1992年1月。ISBN 4-7952-5172-X
- 『理想の医療を語れますか-患者のための制度改革を』、東洋経済新報社、2002年4月。ISBN 4-492-70081-1
[編集] 参考文献
- 鎌田實『あきらめない』、集英社、2003年1月。ISBN 4-08-781267-7(のち、集英社文庫に収録、2006年5月刊。ISBN 4-08-746044-4)
[編集] 外部リンク
- 東大紛争に関する今井自身の回想記
- 聴診器を温めて(長野放送が没後に制作したドキュメンタリーの紹介)