二宮就辰
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二宮 就辰(にのみや なりとき、天文15年(1546年)? - 慶長12年(1607年))は戦国時代の人物。父は毛利元就で母は備後国矢田元通の娘(矢田氏)。養父は二宮春久。
[編集] 生涯
正確な誕生年は不明だが、正室妙玖の逝去数ヶ月後とも伝えられている為、1546年頃と思われる。正室が病床にある手前、家臣である二宮春久に矢田氏を払い下げた後に誕生したと言われている。誕生後は二宮春久の息子として養育されることとなる。就辰が誕生した時、元就は自分の息子であることを伝えるため、具足・産着等を与え、虎法丸と命名した。
就辰は二宮春久の子として、数々の功績を上げる。その素性が元就の側室中の丸より毛利輝元に伝えられ、以後輝元の側近として仕え、1589年の広島城築城に際しては穂井田元清と普請奉行として当たり、1591年の毛利総国検地の際にも中心として働き、数多くの大任を果たした。文禄4年(1595年)11月6日に従五位下信濃守に任ぜられて、豊臣就辰を名乗る事を許された。この頃の所領は9000石を超えたと言われる。
1600年の関ヶ原の戦いの後、防長移封に従い、美祢郡嘉万村に891石を領する萩藩大組として子孫は続いた。