丸目長恵
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丸目 長恵(まるめ ながよし、天文9年(1540年) - 寛永6年2月7日(1629年3月1日))はタイ捨流兵法の流祖。戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、肥後国(熊本県)南部の領主(後の人吉藩藩主)であった相良氏の家臣。名字は幼少時は山本、初陣の戦功により父と共に丸目(まるめ)を与えられる。蔵人佐(くらんどのすけ)または石見守と称す。本姓は藤原、号は徹斎。丸目蔵人佐(まるめくらんどのすけ)の名で知られる。
天文9年(1540年)に、相良氏の支配地であった肥後八代郡八代(熊本県八代市)で誕生した。父は丸目与三右衛門尉、母は赤池伊豆の女と伝えられる。
弘治元年(1555年)16歳のときに、薩摩兵が大畑(熊本県人吉市大畑町)に攻めてきたとき、父と共に戦い、初陣で武功を挙げ父と共に「丸目」の名字を与えられた。弘治2年(1556年)17歳のときに、天文23年(1554年)から相良氏の支配地となっていた肥後天草郡の領主の一人である天草氏の一族である本渡城主の天草伊豆守の元で兵法の修行を行う。
永禄元年(1558年)19歳のとき上洛。新陰流を創始した上泉伊勢守秀綱(後に武蔵守信綱)に師事し兵法の修行に励んだ。その後、将軍の足利義輝の前で上泉伊勢守が兵法を上覧したとき、師の上泉伊勢守の相手として打太刀を務め、義輝より師と共に感状を与えらている。帰国の後、永禄9年(1566年)弟子を伴い再び上洛したが、師の上泉伊勢守が上野に帰国中で、愛宕山、誓願寺、清水寺で『兵法天下一』の高札を掲げたのち帰国した。永禄10年(1567年)『兵法天下一』の高札の件を知った上泉伊勢守から上泉伊勢守信綱の名で印可状を与えられている。
しかし、帰国後の永禄12年(1569年)に薩摩平出水の守将の島津家久が、相良氏が守る薩摩の大口城を奇策を用いて攻めたとき、策にのせられた蔵人佐の主張に従ったため敗戦、多くの将を失い大口城は落城した。敗戦後、その責を負って相良義陽より逼塞の命を受けた。
その後、九州一円の他流の兵法を打ち破り、そのことを知った武蔵守信綱より、西国での新陰流の教授を任されている。蔵人佐の帰国後に信綱が新たに工夫した太刀を学ぶ為に、弟子を伴い再び上洛するも信綱はすでに亡くなっていた。落胆し帰国した蔵人佐は、昼夜鍛錬し数年の後、タイ捨流を開流したといわれている。
天正15年(1587年)、すでに島津氏の軍門に下っていた相良氏は、豊臣秀吉に服属、肥後球磨郡の一郡を領するだけとなった。この年に蔵人佐は逼塞を解かれ再び相良氏に仕えることとなり、新知百十七石を与えられたという。相良家中だけでなく、九州一円にタイ捨流を広め、武将の蒲池鑑廣や立花宗茂らを弟子にしている。晩年には徹斎と号し、切原野(熊本県球磨郡錦町)の開墾に従事しながら隠居生活を送ったという。また、兵法だけではなく、書、和歌、仕舞、笛などにも優れた才を示した教養人であったという。寛永6年(1629年)に死去。法名は雲山春龍居士。墓は熊本県球磨郡錦町切原野堂山にある。