中村氏 (下野国)
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中村氏(なかむらし・なかむらうじ)は、平安時代から戦国時代まで下野国芳賀郡中村城 (栃木県真岡市中)に住した一族。伊達氏の祖とされる常陸国伊佐郡の伊佐氏の同族で、藤原北家山蔭流との説がある。
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[編集] 歴史
[編集] 下野国の中村氏(藤原氏流)
天永2年(1111年)、藤原定任の長男実宗が常陸介に任じられ、常陸国伊佐郡若しくは下野国芳賀郡中村城 に住し、伊佐氏若しくは中村氏を称した事から始まる。
文治5年(1189年)常陸入道念西[2]の4人の子息が、源頼朝に従い奥州合戦に従軍し石那坂の戦いで戦功を得る。これにより伊達郡と信夫郡を賜わり、同地に住し伊達氏を称した。 中村城は朝宗次男[3] の朝定が継いだ。[4]
建武2年(1335年)7月の中先代の乱において、中村太郎経長は足利尊氏に味方して本領を回復した。南北朝の対立になると経長は南朝方に属し、伊達行朝等と共に北畠顕家に従って戦ったが、興国4年(1343年)11月常陸国伊佐郡の伊佐城で高師冬に破れた。このため、経長は中村城に逃れ、宇都宮公綱を頼り、以降は宇都宮氏に属した。
天文13年(1544年)10月7日、中村城 は水谷蟠龍斎正村に攻められ、中村日向玄角は討死し、子の小太郎時長は米沢の伊達氏を頼り中村日向と号し、以降は伊達家臣となり奥州岩ケ淵の館を賜り代々岩沼に住んだ(実際には仙台伊達家臣の中村日向が領したのは陸奥国栗原郡岩ケ崎)。
[編集] 仙台藩一家の中村氏
『栗駒町史』によると仙台藩一家で栗原郡岩ケ崎を領した中村氏は、藤原北家山蔭流ではなく清和源氏新田氏流を称し、はじめ新田氏を称したが後に、徳川将軍家を憚り、中村氏に改姓したとされており、また、『米沢市史』では藤原氏の血を引く国人領主で仁井田郷に移住し仁井田氏を称し、後に新田氏となり中村氏に改姓したとされている。『伊達世臣家譜』では先は不知とのみある(中村氏 (仙台藩)を参照)。
また、江戸時代に仙台の伊達宗家の連枝及び伊達一門の連枝にも中村姓を下賜されている事項の記録があるという。
[編集] 系譜
[編集] 朝定以前
藤原山蔭 ┃ 中正 ┃ 安親 ┃ 為盛 ┃ 定任 ┣━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┓ 中村実宗 藤原章家 覚暹 頼緑 範緑 廉慶 ┃ 季孝 ┃ 家周 ┃ 光隆 ┣━━━━┳━━━━┳━━━━┓ 朝宗 頼保 慶祐 智源 ┣━━━━┓ 伊達宗村 中村朝定
[編集] 脚注
- ^ 『尊卑分脈』では藤原朝宗
- ^ 中村氏側史料では朝宗の子宗村、伊達氏側史料では朝宗とされる
- ^ 『吾妻鏡』は、念西の二男を常陸次郎為重とする。
- ^ 中村氏側の伝承。中村朝定には源義経の遺児であるとの伝承もあるが、これは仮冒であろう。伊達氏側史料では朝宗が伊達氏を称し、三男資綱が下野国芳賀郡中村に住したとしている。