中山親雅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中山 親雅(なかやま ちかまさ、文和2年/正平7年(1353年)?-応永9年(1402年))は、南北朝時代から室町時代初期にかけての公卿・歌人。藤原北家師実流花山院家庶流中山家の当主。権中納言中山定宗の子。権大納言中山満親・尊雅(延暦寺)の父。正二位・権大納言。
貞治2年/正平18年(1363年)従五位上に叙位される。左近中将・蔵人頭・宮内卿などを歴任し、康暦2年/天授6年(1380年)正四位上参議になる。永徳元年/弘和元年(1381年)正三位に昇叙される。永徳3年/弘和3年(1383年)従二位・権中納言になる。明徳3年/元中7年(1392年)正二位に昇叙される。その後いったん辞任したが、応永元年(1394年)還任し、権大納言になる。応永2年(1395年)官を辞し出家して法名を宗雅(又は祐元・祐雅)とした。応永9年(1402年)50歳で薨去した。
歌人でもあり、『新後拾遺和歌集』『新続古今和歌集』といった勅撰和歌集に和歌が収録されている。