中上健次
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中上 健次(なかがみ けんじ、男性、1946年8月2日 - 1992年8月12日)は、和歌山県新宮市生まれの小説家。和歌山県立新宮高等学校卒業。本名は、表記は同じだが読みは「なかうえ」。妻は作家の紀和鏡、長女は作家の中上紀、次女は陶芸家で作家の中上菜穂。
被差別部落の出身であり、部落のことを「路地」と表現する。羽田空港などで肉体労働に従事したのち執筆に専念。初期は、大江健三郎から文体の影響を受けた。柄谷行人から薦められたウィリアム・フォークナーに学んだ先鋭的かつ土俗的な方法で、紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、ある血族を中心にした「紀州サーガ」とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。1975年(昭和50年)、『岬』で、第74回芥川賞を受賞。戦後生まれで初めての芥川賞作家として、話題を呼んだ。1992年、腎臓癌のため死去。享年46。
目次 |
[編集] 生涯
1946年8月2日、和歌山県新宮市に父・鈴木留造と母・木下ちさとの間に生まれる。実父である留造は健次が生まれる以前に別の二人の女性との間に女児二人をもうけており、健次が生まれてのちにちさと別れ、上記のうち一人の女性との間にさらに二人の男児をもうけている。母・ちさは前夫・木下勝太郎との間に5人の子供を生んでおり、留蔵と別れたのちに一子を連れた中上(なかうえ)七郎と暮らすようになる(健次が中学の時に入籍)。したがって中上健次は「母方で言えば三男、父方で長男、戸籍上で長男、育った家庭では次男という複雑極まりない状態」(「又三郎」)で少年期を過ごすことになる。お婆さん子だった母から聞かされた物語は、後の中上の文学世界の形成に大きな影響を与えた。
1953年、新宮市千穂小学校入学。自然の中で山遊びをして過ごす。小学6年も終わりのころ、12歳年上の腹違いの兄・木下公平が首吊り自殺。大きな衝撃を受け、作家となってのち幾度もこの出来事を題材としている。新宮市緑ヶ丘中学校を経て、1962年和歌山県立新宮高等学校に入学。体の大きかった中上は中学生のころは不良青年であったが、一方で精力的に本を読み始め、高校ではマルキ・ド・サド、セリーヌ、ジュネを愛読、当時新進作家であった大江健三郎、石原慎太郎などを含めおびただしい量の読書をした。高校在学中、処女作「赤い儀式」を制作。
1965年、大学受験の名目で同級生とともに上京。予備校生として仕送りを受けながら東京で生活する。同年『文芸首都』の会員となり「十八歳」を同誌に掲載。この時期は新左翼運動に傾倒、モダンジャズにのめりこみ、『詩学』『文学界』などの各誌へ作品を投稿する。高田馬場、代々木、沼袋、練馬と移り住んだ。1968年、『三田文学』を通じて柄谷行人と知り合い、柄谷からフォークナーを勧められ大きな影響を受けた。1970年に『文芸首都』を通じてかすみ夫人(紀和鏡)と結婚。夫人の妊娠、結婚をきっかけに肉体労働を始め、8月から羽田空港で貨物の積み下ろし業務に従事。その後軽子やフォークリフトの運転手などを経て執筆に専念。1973年以降、「十九歳の地図」「鳩どもの家」「浄徳寺ツアー」が続けて芥川賞候補となる。
1974年、「岬」で第74回芥川賞受賞。戦後生まれで初めての受賞者となり話題となる。1977年、「岬」の続編である代表作『枯木灘』発表。紀州を舞台に、肉体労働に従事する青年を中心とした血族の物語を緊密な文章で描き高い評価を得る。同作品で毎日出版文化賞、芸術選奨新人賞を受賞。以後実母をモデルにした『鳳仙花』(1980年)、高貴な血を引く若者たちの宿命を描いた連作『千年の愉楽』(1982年)、『枯木灘』に続く長編『地の果て 至上の時』(1983年)、谷崎潤一郎の『春琴抄』への「心からの和讃」とした連作『重力の都』(1988年)などを発表していく。
1992年8月12日、腎臓癌のため和歌山県東牟婁郡那智勝浦町内の日比病院で死去。享年46歳。『鰐の聖域』『異族』が未完のまま残された。
[編集] 主要著作
[編集] 長編小説
- 『枯木灘』(1977年)
- 『鳳仙花』(1980年)
- 『地の果て至上の時』(1983年)
- 『物語ソウル』(1984年)
- 『日輪の翼』(1984年)
- 『紀伊物語』(1984年)
- 『野生の火炎樹』(1985年)
- 『十九歳のジェイコブ』(1986年)
- 『火まつり』(1987年。映画化(柳町光男 監督)のための書き下ろし。「火まつり (映画)」参照)
- 『天の歌:小説都はるみ』(1987年)
- 『奇蹟』(1989年)
- 『讃歌』(1990年)
- 『軽蔑』(1992年)
- 『鰐の聖域』(1992年) *未完
- 『異族』(1993年) *未完
[編集] 短編集
- 『十九歳の地図』(1974年。柳町光男監督により映画化)
- 『鳩どもの家』(1975年)
- 『岬』(1976年)
- 『蛇淫』(1976年)
- 『十八歳、海へ』(1977年)
- 『化粧』(1978年)
- 『水の女』(1979年)
- 『千年の愉楽』(1982年)
- 『熊野集』(1984年)
- 『重力の都』(1988年)
[編集] エッセイ他
- 『鳥のように獣のように』(1976年)
- 『ジャズと爆弾 中上健次 VS 村上龍』(1977年)
- 『紀州:木の国・根の国物語』(1978年)
- 『夢の力』(1979年)
- 『破壊せよ、とアイラーは言った』(1979年)
- 『小林秀雄をこえて』(1979年)
- 『東洋に位置する』(1981年)
- 『風景の向こうへ』(1984年)
- 『君は弥生人か縄文人か』(1984年)
- 『都はるみに捧げる』(1985年)
- 『America, America』(1985年)
- 『火の文学』(1985年)
- 『輪舞する、ソウル』(1985年)
- 『俳句の時代』(1985年)
- 『スパニッシュ・キャラバンを捜して』(1985年)
- 『On the Border』(1986年)
- 『アメリカと合衆国との間』(1987年)
- 『時代が終わり、時代が始まる』(1988年)
- 『バッファロー・ソルジャー』(1988年)
- 『解体される場所』(1990年)
- 『問答無用』(1992年)
- 『言霊の天地』(1993年)
- 『甦る縄文の思想』(1993年)
- 『風景の向うへ・物語の系譜』(2004年)
- 『南回帰船』(2005年)
[編集] その他
-
- 『中上健次発言集成 1』(対談 1) 1995年 ISBN 4-476-03189-7
- 『中上健次発言集成 2』(対談 2) 1995年 ISBN 4-476-03196-X
- 『中上健次発言集成 3』(対談 3) 1996年 ISBN 4-476-03203-6
- 『中上健次発言集成 4』(対談 4) 1997年 ISBN 4-476-03206-0
- 『中上健次発言集成 5』(談話・インタビュー) 1996年 ISBN 4-476-03198-6
- 『中上健次発言集成 6』(座談・講演) 1999年 ISBN 4-476-03216-8
- 中上健次著、高澤秀次編『中上健次<未収録>対論集成』 作品社 2005年 ISBN 4-86182-062-6
[編集] 研究・評伝・参考書
- 四方田犬彦『貴種と転生・中上健次』、新潮社、1987年
- 明石福子『中上健次論:幻視の地が孕むもの』、編集公房ノア、1988年
- 柄谷行人『坂口安吾と中上健次』、太田出版、1996年(講談社文芸文庫、2006年)
- 柄谷行人 他『群像 日本の作家24 中上健次』、小学館、1996年、
- 高澤秀次『評伝中上健次』、集英社、1998年
- 柄谷行人・渡部直己編『中上健次と熊野』、大田出版、2000年
- 張文頴『トポスの呪力:大江健三郎と中上健次』、専修大学出版局、2002年
- 高澤秀次『中上健次事典:論考と取材日録』、恒文社、2002年
- 辻章『時の肖像:小説・中上健次』、新潮社、2002年
- KAWADE夢ムック『文藝別冊:中上健次』、河出書房新社、2002年
- 守安敏司『中上健次論:熊野・路地・幻想』、解放出版社、2003年
- 中上紀『夢の船旅:父中上健次と熊野』、河出書房新社、2004年
- 井口時男『大江健三郎と中上健次』、作品社、2004年
- 高澤秀次編『中上健次と読む「いのちとかたち」』、作品社、2004年
- 中上菜穂『秘密の小道 陶芸コト始め』、ぴあ株式会社、2004年
- 高山文彦『エレクトラ』、文藝春秋、2007年
[編集] その他
- ビートたけしと永山則夫がバイトしていたジャズ喫茶の常連だった。その後もたけしとは交遊があり、雑誌で対談も行なっている。(「文藝別冊 中上健次」に収録)。また1990年に永山則夫が日本文藝家協会から死刑囚であることを理由に入会を断られた際、この決定に抗議して柄谷行人、筒井康隆とともに協会を脱会している。
- 現在も熊野大学(中上が生前に組織した郷里のグループ)主催による「中上健次シンポジウム」が毎夏に新宮市で開催され、柄谷行人、浅田彰などが講師として参加している。生徒にはモブ・ノリオなどがいた。
- 晩年は劇画の原作も担当し「南回帰船」のタイトルで4巻(未完)出版された。